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-件のコメント

[C3757] プレーするのは誰?

「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」
「当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない」
「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」
うーむ・・もりけんさんにかかるとこうなるのかと衝撃を受けました。オシムへの興味がここなんだって・・・
こうくるところが凄いと、この置き換えにただシビレています。
  • 2006/09/05-03:30:25
  • 投稿者 : Ciel
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[C3557] >プレーするのは誰?

>「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」
の「ただ」に注目を浴びてしまいました。

このフレーズがめぐりめぐって、
「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」
となりました。

プレーしているのは、人間である。それは確かですが、運命からは独立することができません。

オシムが監督になったことで選手たちの意識に「自由はないかも・・」って感じているのかも知れないなと思ってしまいました・・

[C3551] プレーするのは誰?

オシム監督は、一緒に走ります。怒るのも、ピッチに立ってる
選手と同じ目線だから怒るのかなあと思います。
今までの監督は指揮する(と思っている)人で一緒に走っている
ような気持ちのひとはいなかったかもしれません。
オシム監督は、走って走って走れ!と言ってます。
選手も自分で考えろ・・と言ってます。
ものすごく対等だと思いました。
プレーするのは、オシム監督もそうだと思います。

[C3549] この視点は

この視点は
そのままそこに置いてあるのに
なかなか見つけられないんだよね^^

やっぱり≪森田健≫は^^素的だ

人間は偉大な者に対して
直ぐに下から仰ぐような視点を持ってしまう

「偉大だ!」と感じたとき
その相手を一度上から見下してみるといいんだ^^
そうすると
同じ目線で語れるようになるから^^

「上下」はクリアーすべきフェイクにしか見えないんだけど
もしくは
生身を優先させる付き合いの時
気を配っておかないといけない作法かな^^

神様・時空を一度^^見下してみよう!
何か違う世界を覗けるかもよ
何か違う香りを嗅げるかもよ

上からの物言いに感じたら^^失敬!ごめんなさい

[C3541] 管理人のみ閲覧できます

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  • 2006/08/27-08:07:19
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[C3540] 管理人のみ閲覧できます

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  • 2006/08/27-07:46:24
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[C3539] >プレーするのは誰?

 やはり選手も監督も代替可能なものであるからこそ、それを演じる役者になれるか、選手は選手をこなせるか、そして人間は運命を役者として演じきれるかどういう演じ方をすれば自由になって不自由になるのか、演じ方によって束縛や規制を自由から不自由へと極端に行ったり来たりしていそうです。
  • 2006/08/27-04:56:18
  • 投稿者 : yk
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[C3538] >プレーするのは誰?

「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」というと、監督は誰でもいいのだという感じがします。誰がやっても同じだと。。でも、オシム氏には、誰がやっても同じとは言わせないというような意気込みを感じます(伝えられている言葉からだけの印象ではありますが。。)
そういう監督と実際プレーする選手の息がぴったりあえば、見事なプレーが続出したりするかも。。。なんて思ったりしました。。

[C3537] >プレーするのは誰?

>「当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」には、「選手の自由」が
>前提となっています。
 
「当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」というフレーズを読んで、「グラウンドの中を走り回ってはいないけど、監督だって試合に参加しているんだからプレーしているじゃないか」と思いました。でも「選手の自由が前提となっている」なんて視点はなかったです。ですからこの視点に驚いています。
 
「選手の自由」というのは、監督からの指示があったとしても、選手がその指示に従うとは限らない、ということだと思うのですが。。。
 
この事を「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」に当てはめたら「エッ!!!」ということになってしまいます(汗)
  • 2006/08/26-22:38:57
  • 投稿者 : ぷく
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[C3536] >プレーするのは誰?


監督にとって選手たちは駒だと思います。
それはチェスの駒のようなものかもしれません。
チェスの駒と違うところは、生身の選手たちは疲労したり怪我したりするということですが・・しかし、もしチェスの駒と同じであると考えるならば、プレイするのは選手ではなく監督だと思います。
 
人間は運命の駒かもしれません。
しかし、チェスやサッカーと違うところは、プレイヤーである運命はルールそのものだということです。
プレイヤー不在で、ルールに沿って駒が淡々と動いているようです。
それは演奏者不在で自動演奏するピアノみたいです。
いったいプレイしているのは誰なんだろう・・と思います。
  • 2006/08/26-22:30:22
  • 投稿者 : くるみ
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[C3534] >当たり前のことが当たり前でなくなってきました。

オシムは、記者の質問を問い返したり、記者に質問したりしています。
記者は目が点になっているような気がします。
選手にも自分で考えろといっているようです。
記者も選手も、頭の中は?マークだらけになっているのではないかと思います。
オシムを中心に、?マークが伝搬しているようです。
  • 2006/08/26-21:04:24
  • 投稿者 : ワヲン
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[C3533]

当たり前のことって何だろうと思いました。
選手と監督とは違う。
人と運命とは違う。
人と神とではもっと違うと思ってきました。
トイレトレーニングは子供がトイレを覚えるまで根気よく教えていますが当の子供の気持ちにならないとできないと思います。
確かに別々でプレーをしている選手より監督が注目されるのは変な気がします。
オシム監督はすごく厳しそうです。
運命と人との関係は選手と監督と似ているのだろうか。
分離しているような一緒でいるような不思議な関係です。
  • 2006/08/26-19:58:15
  • 投稿者 : 小町
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[C3532] 当たり前のことって

コメントをどうぞ
  • 2006/08/26-19:40:19
  • 投稿者 : 小町
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[C3531] >プレーするのは誰?

「監督」というのは何のためにいるのかな、とふと思ってみました。別に監督なんていなくても有能な選手であればいくらでも戦えるだろうし、試合そのものも成り立ちます。それでも、やっぱりチームが戦うには選手を統括する指揮官みたいな役割の人が求められているのでしょう、その理由は選手にズバリ制御をかけることでしょうか、もし監督がいない試合であれば、その試合の勝敗を占術で占うのは監督がいる場合の試合より容易になるような感じがします(根拠はありませんが)。監督がいない場合の方がより選手が運命通り動くような気がするからです。それで、監督によって選手にある種の制御がかかれば、その制御によって選手は少しばかり自由になって、「プレーするのは誰?」ということであれば、その制御の分だけプレーするのは選手になるのではないかと思いました。
  • 2006/08/26-19:35:59
  • 投稿者 : おかだ
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[C3529]

プレイするのは本当に自分なんだろうか・・・・と思いました。
運命がようやく肉体(あればと考えて)を持ったのに思うように動かない自分の身体にもがいてるような気もしました。

走れないのは致命的です。世界で戦うのにおむつをつけてるようなものかもしれないです。

[C3528] 「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」

それはそうですよね。

グランドを走り回って戦っているのは選手たちであって、監督ではないのだから、至極当然なコメントです。

要するに、主役は選手たちであって、監督ではないと言いたいのでしょう。

でも、選手たちは本当に主役なのでしょうか?

選手たちに自分たちは主役なのだと思わせておいて、
自分の構想どおりに選手たちを駒のように自在に動かせる監督のほうが、主役である選手たちよりもよほど上手だと思います。

運命と神様は、人間に人生というドラマの主人公は自分であると思わせておいて、そのときどきに人間が人生に翻弄されるさまを笑いながら見ているのかもしれません。

います。


  • 2006/08/26-14:12:17
  • 投稿者 : ばなな
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[C3527] ゲームボード

サッカーのゲームボードを思い浮かべました。

プラスティック製の選手は、レールに固定されてゲームのプレイヤーの操作によって動きます。
プレイヤーは監督であって選手の代わりも務めます。

実際のゲームでは役割分担ができていますが、あながち構図は相似形だと思います。
サッカー場が広いから等の物理的な要因だけで役割分担ができているといってもおかしくないと思います爆。

ボードゲームのプレイヤーは選手であって監督。
もしこのゲームボード自体が時空であるなら、プレイヤーは人間であって神ということになるかもしれません。

飛びますが、神が人間を操っている一方的な関係ではないように思えます。その逆もそうだと思います。

人間が、神が・・・どちらかという見方ができない。
どちらかがプレーさせるさせられるのではないかも・・・

そんな考えにいたりました。

[C3526] >プレーするのは誰?

スポーツライターの言葉は、オシム監督がしょっぱなからガンガン表出するに対して、選手の立場から述べたことかに聞こえます。
が、選手たるもの自分ひとりを頼りにするよりも、監督から寄越されるもの全てを取り込んでみるのが良いのではと思います。自分という殻を破り、新たな領域が感じられるかも知れないからです。
監督も、選手の個性をチマチマ考慮せず、常に全てをぶつけて出し切っていく先に、つかめる何かがあるかも知れません。
監督と選手がへだたりをとっぱらってぶつかる双方向の太い流れを構築し始めている時期で、勝つためには代替大いにアリが浸透していくのだと思います。
ライターさんは、監督の熱さと選手がそれを受け止めるすべをじゃんじゃん書くのが良いのではと思います。

>当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない
については、人間主導の神というイメージがいくつも存在している現在を表していると思います。
真実の神がどうあろうと知ったこっちゃない、私たちの望む姿を祈ることが大事なのだと取れました。

>当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない
これも、運命が決まっていようがいまいが知ったこっちゃない、願う通りになると信じて突き進むのみ!と聞こえます・・
そうしたい人はそうするのも良いでしょうけど、よぼよぼで動けなくなったとき、「運命を知ってさえいたら・・」と思うかも知れません・・
怖がらないで、知る機会あれば知っておこうかな・・?
  • 2006/08/26-13:37:08
  • 投稿者 : ゆくえ
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[C3525] >トイレトレーニング

>「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」

「当たり前だが、するのは子供であって、親ではない」(トイレトレーニング)だとしたらどうなんだろうと思いました。当たり前なのかどうか…。おむつが外れる前の子供って、どこででもします。膀胱をまったく制御できないから。出てから「あ」と気づくみたいなところもあります。
どこで、どんな風に、どんな時に、どんな手順で、というのは、そういう子供をトイレに置いたって…まったくわからないのではないかと思いました。トイレットペーパーで遊んだり…そこで水遊びする子だっているぐらいですから。トイレは意味が分らなければオモチャです。
オシムって徹底的にシチュエーションと意味をたたきこんでるのかなとおもいました。大人がトイレでカラダが反応してコトをおえるぐらいスムーズにできるように。大人になるとトイレの動作って考えてないよなって思います。惰性に近いぐらいスムーズだなと思います。意識からの侵略みたいです。なんか結構深いスレッドテーマだと…あとから考えては思いました。

[C3524] 「チームのために死んでくれ」

とか「お国のために死んでくれ」と言われたときに「死なね~よ」と言わせないのが「和」なのではないかと思いました。

この自分たちすら普段は意識していない心の奥底にひそむ「和」の鎖をぶった切るのは非常に難しいと思います。サッカーをやる前に文化的な戦いをしなくてはならないというのは、どう考えても監督の仕事ではありません(汗)。

ジーコは相手のチームに負けたのではなく、この「和」の文化という途方もない敵に負けたのかもしれないと思いました。
  • 2006/08/26-11:30:47
  • 投稿者 : ナイル
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[C3523] >「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」

今現在、運命というのは人間にとって未知の領域と言ってよいのだと思います。
とすると、
運命がプレーしている訳ではないと言い切れません。
運命が勝敗を左右しているとも言い切れません。
「選手は大汗かいてガンジガラメの中で、もがいているだけだ」言う人がいても誰も確信もって否定できません(汗)。

[C3522] >これを言ったのはオシムではありません。

オシムという人をよく知っているわけではないので「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」という言葉をオシムが言いそうかどうかということも判断がつきません。オシムの人物研究をしているわけではないのでどちらでもいいのではないかと思いました。

さて、極限状態に陥ったときに、「和」や「チーム愛」そしておそらく「愛国心」も、選手の気力をもちこたえさせないと思います。「じゃあ、そこにあるのは何なんだ」と思います。

「個としての強さ」と言った人もいます。でも、私は90分なお走って倒れる寸前においても「身体が柔軟」であることだと思います。身体が柔軟であればHPのメインからの着想ですが、死角からの発想ができ、そこで自分が何をしなければならないか、どうすれば相手に勝てるかという発想の切り替えが極限状態においてもできると思うからです。

身体の柔軟さは、試合経験やトレーニングを通じて選手が身につけるしかありません。監督や評論家、それに「外野」が何を言ってもどうなるものでもありません。

身体の柔軟さからくる思考の柔軟さや独立性は、勝っている試合でペットボトルをなげつけるオシムがもっているものだと思います。
  • 2006/08/26-10:55:28
  • 投稿者 : ナイル
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[C3521] >プレーするのは誰?

今までの歴代のW杯の監督がこの時のイエメン戦に立ち会っていたらどうしていただろう
かと思い返してみると、誰もオシム氏のように激しく怒る人はいなかったと思います。
言葉が悪いですが、みんな結果オーライだったと思います。
素人の私が言うのもなんですが、だからいつも結果がイマイチで終わっていたのだと思い
ます。
高校野球は今まったく見ていませんが、私が高校生の時はもっと厳しい監督がいたような
気がするのですが、最近はいないと思います。
多分あまり厳しくしすぎると生徒がついていかないからという風潮があって、誉めて長所
を伸ばせというスタンスに変わってきていると思います。
おそらくサッカー界も同じでしょう。
しかしホメようが叱ろうが、監督が“緻密に”思い描いた通りに選手が動きさえすれば、
どのような接し方をしようがどうでもいいのだと思いました。
あの試合中に見せたオシム氏の怒りの動作は、確信犯的にやった部分も否定できません。
あのようなすこし大げさな怒りの態度を取ることによって、選手達に冲をかけて、
「それで本当にいいのか?」という問い返しを起こさせたのではないかと、思いました。
  • 2006/08/26-10:37:22
  • 投稿者 : イーキン
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[C3520] >プレーするのは誰?

①「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」

②「当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない」

③「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」


当たり前が当たり前じゃなくなる。。。

と思いました。


まず、①ですが、実際にからだを動かすのは選手です。なので、監督が試合のコーディネート役であるとすれば、監督は頭脳、・司令塔であり、選手は駒ということになります。

②は神がひとたびつくった世界において、これからの世界を生成し満喫するのは人間であり、人間は自由な存在だ。。

③は運命を生きるの人間だ。。

ということだと思いました。


①②③に共通していえるのは、
からだを使って行為する側と、
からだを動かせない側に分かれている
ということです。


しかし、これまでの運命の研究によれば
運命は時空の始まりから決まったいるという仮説があります。

そして、時空が始まったきっかけは、
時空自身の「私は誰?」
という問いかけでした。

そして、その問いによって、
神は初めて小指を動かした・・
それが運命変更なのではないか・・
という仮説がでました

だとすれば、

これまでは「当然」だったものが、
「問い」をきっかけとして「当然」ではなくなり、

プレーする側と頭脳側が対等になりつつあるのだと思いました。

「当然」を問うたとき、「当然」が当然ではなくなり、
プレーは両者の相互作用といえるのではないかと思うようになりました。


「問い」を発することで、時空の始まりの根源地点に戻ると思いますが、

そこでは、監督と選手、神と人間、運命と人間は分かれていなかったと思います。

しかし、今は、分かれており、
分かれていることが「当然」のように思い込んでいますが、
それは、現時点での「役割」に過ぎないのだと思いました。


 
  • 2006/08/26-10:35:42
  • 投稿者 : あかり
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[C3519] >当たり前のことが当たり前でなくなる

すぐさま思ったのは、「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」の逆のフレーズです。


「当たり前だが、プレーするのは運命(神・監督)であって人間(選手)ではない」


今まさに、こういうことをここで教わってるんじゃないか、と思いました。概念の逆転です。


運命・神が定めた枠の中で、人間は自分の自由にやっている・自分が動かしてる、と思って生きている・・、監督の設定した枠の中で、選手は自分がプレーを作り出したことで勝った、と思ってやっている・・。

昨日のオシム監督が怒った話に戻せば、監督は自分の設定した枠が自分の予想していた勝ち方に繋がらなかったから自分に怒ったのか、はたまた枠は正しかったけれども、選手の勝ち方が自分の設定した枠内での最大値の勝ち方でなかったから選手に怒ったのか、・・。


神や運命は怒ったりしませんから、不動心は山のごとく、だと思います(変更をかければ動きますが、感情はないでしょう)が、オシム監督は人間ゆえに、そこで怒るという運命にさらにあやつられ従っているのだと、そして、自分がその枠をいかに設定するかで、チームの運命を変えられる、と思っている、やはり運命のなかの一つの駒なのかな、と思います。なんか、グルグルしてます。


それにしても、これがトイレトレーニングに繋がるとは、驚きました。置き換えてみれば、親は子供自身が覚えなくてはいけないことだと単純に思っていますが、子供は、教えられなければ、絶対自分から出来るようにはなれませんね(私は自然におしっこできるようになっていくものなのだとずっと思ってましたが)。「当たり前だが、おしっこするのは、親であって子供ではない」と置き換えるとものすごく変ですが、親の枠・設定の中で、子供は自分が出来るように自分でなった、と思っている、という風に考えると、繋がってくるかな、と思いました。
  • 2006/08/26-10:10:26
  • 投稿者 : ぱらむ
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[C3518] >「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」

これを言ったのはオシムではありません。
スポーツ評論家です。
 
念のため・・

[C3517] あはは

なぜに『トイレトレーニング』(笑)
読めない(笑)リアルタイムすぎて(笑)
人間はトレーニング中なのでしょうか。オシムも大変だと思いました。(え、そうなの…?)

[C3516]

>「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」
  ↓
>「当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない」
  ↓
>「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」
 
(o_o;)なんか…読んでてなんじゃこりゃ度120%です。えーもりけんさんにはそう見えたのですか…。なんか視点がぐるんぐるんしすぎてついていけません。私は神について考えた事ないんだと思いました。自由…でも運命と人間は連動(?)してるしなぁー。えーどうなってるんでしょう。変なレスですいません。思考が途切れてます。やーぶっ飛びました。

[C3515] もりけんさんの発想が面白いと思いました

>「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」

これは私も聞きましたが、特になにもかんじませんでした。それを、

>「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」

ここまで言い換えようという発想は自分にはないからです。

オシムの最初の言葉は、90分間グラウンドで走らなくてはならない選手が、体力の限界を通り越して脚が動かなくなったときに、劣悪な気象条件の中で、それでもプレーを続けなくならなくなった極限状態のときに、また、絶対落とせない試合で点差が開いてしまったときに、気力をもちこたえることができるかどうかは選手自身にかかっている、監督は何もすることはできない、ということだと思います。

もりけんさんの言葉は運命を信じるかどうかにかかわらず、人生を精神的に豊かな充実したもののするかどうかは、その人自身にかかっているということを言っているようなきがします。

  • 2006/08/26-09:48:51
  • 投稿者 : ナイル
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プレーするのは誰?

 
 オシムに「ん? 何かある」と思うようになると、彼に対するスポーツ評論家の記事も気になるものが出始めました。
 
 その筆頭が以下のフレーズでした。
 
「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」
 
 私もそう思ってきました。しかし当たり前のことが当たり前でなくなるのが不思議研究です(笑)
 
 上記のフレーズ「当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」には、「選手の自由」が前提となっています。
 
 私は神について一番刺激があったのが学生時代でした。カトリックの大学だったからです。
 その場合、監督を神に置き換えてみれば(笑)、次のようになります。
 
「当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない」
 
 (笑)
 
 このフレーズは、人間は神とは独立した存在であり、自由なんだ・・と言っています。
 
 最近私は運命の研究を始めました。それで言い換えると次のようになります。
 
「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」
 
 先ほども書いた通り、私の研究によれば、当たり前のことが当たり前でなくなってきました。
 オシムに興味を持ったのは、ここにあると言っても過言ではありません。
 
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29件のコメント

[C3757] プレーするのは誰?

「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」
「当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない」
「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」
うーむ・・もりけんさんにかかるとこうなるのかと衝撃を受けました。オシムへの興味がここなんだって・・・
こうくるところが凄いと、この置き換えにただシビレています。
  • 2006/09/05-03:30:25
  • 投稿者 : Ciel
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[C3557] >プレーするのは誰?

>「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」
の「ただ」に注目を浴びてしまいました。

このフレーズがめぐりめぐって、
「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」
となりました。

プレーしているのは、人間である。それは確かですが、運命からは独立することができません。

オシムが監督になったことで選手たちの意識に「自由はないかも・・」って感じているのかも知れないなと思ってしまいました・・

[C3551] プレーするのは誰?

オシム監督は、一緒に走ります。怒るのも、ピッチに立ってる
選手と同じ目線だから怒るのかなあと思います。
今までの監督は指揮する(と思っている)人で一緒に走っている
ような気持ちのひとはいなかったかもしれません。
オシム監督は、走って走って走れ!と言ってます。
選手も自分で考えろ・・と言ってます。
ものすごく対等だと思いました。
プレーするのは、オシム監督もそうだと思います。

[C3549] この視点は

この視点は
そのままそこに置いてあるのに
なかなか見つけられないんだよね^^

やっぱり≪森田健≫は^^素的だ

人間は偉大な者に対して
直ぐに下から仰ぐような視点を持ってしまう

「偉大だ!」と感じたとき
その相手を一度上から見下してみるといいんだ^^
そうすると
同じ目線で語れるようになるから^^

「上下」はクリアーすべきフェイクにしか見えないんだけど
もしくは
生身を優先させる付き合いの時
気を配っておかないといけない作法かな^^

神様・時空を一度^^見下してみよう!
何か違う世界を覗けるかもよ
何か違う香りを嗅げるかもよ

上からの物言いに感じたら^^失敬!ごめんなさい

[C3541] 管理人のみ閲覧できます

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  • 2006/08/27-08:07:19
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[C3540] 管理人のみ閲覧できます

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  • 2006/08/27-07:46:24
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[C3539] >プレーするのは誰?

 やはり選手も監督も代替可能なものであるからこそ、それを演じる役者になれるか、選手は選手をこなせるか、そして人間は運命を役者として演じきれるかどういう演じ方をすれば自由になって不自由になるのか、演じ方によって束縛や規制を自由から不自由へと極端に行ったり来たりしていそうです。
  • 2006/08/27-04:56:18
  • 投稿者 : yk
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[C3538] >プレーするのは誰?

「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」というと、監督は誰でもいいのだという感じがします。誰がやっても同じだと。。でも、オシム氏には、誰がやっても同じとは言わせないというような意気込みを感じます(伝えられている言葉からだけの印象ではありますが。。)
そういう監督と実際プレーする選手の息がぴったりあえば、見事なプレーが続出したりするかも。。。なんて思ったりしました。。

[C3537] >プレーするのは誰?

>「当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」には、「選手の自由」が
>前提となっています。
 
「当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」というフレーズを読んで、「グラウンドの中を走り回ってはいないけど、監督だって試合に参加しているんだからプレーしているじゃないか」と思いました。でも「選手の自由が前提となっている」なんて視点はなかったです。ですからこの視点に驚いています。
 
「選手の自由」というのは、監督からの指示があったとしても、選手がその指示に従うとは限らない、ということだと思うのですが。。。
 
この事を「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」に当てはめたら「エッ!!!」ということになってしまいます(汗)
  • 2006/08/26-22:38:57
  • 投稿者 : ぷく
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[C3536] >プレーするのは誰?


監督にとって選手たちは駒だと思います。
それはチェスの駒のようなものかもしれません。
チェスの駒と違うところは、生身の選手たちは疲労したり怪我したりするということですが・・しかし、もしチェスの駒と同じであると考えるならば、プレイするのは選手ではなく監督だと思います。
 
人間は運命の駒かもしれません。
しかし、チェスやサッカーと違うところは、プレイヤーである運命はルールそのものだということです。
プレイヤー不在で、ルールに沿って駒が淡々と動いているようです。
それは演奏者不在で自動演奏するピアノみたいです。
いったいプレイしているのは誰なんだろう・・と思います。
  • 2006/08/26-22:30:22
  • 投稿者 : くるみ
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[C3534] >当たり前のことが当たり前でなくなってきました。

オシムは、記者の質問を問い返したり、記者に質問したりしています。
記者は目が点になっているような気がします。
選手にも自分で考えろといっているようです。
記者も選手も、頭の中は?マークだらけになっているのではないかと思います。
オシムを中心に、?マークが伝搬しているようです。
  • 2006/08/26-21:04:24
  • 投稿者 : ワヲン
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[C3533]

当たり前のことって何だろうと思いました。
選手と監督とは違う。
人と運命とは違う。
人と神とではもっと違うと思ってきました。
トイレトレーニングは子供がトイレを覚えるまで根気よく教えていますが当の子供の気持ちにならないとできないと思います。
確かに別々でプレーをしている選手より監督が注目されるのは変な気がします。
オシム監督はすごく厳しそうです。
運命と人との関係は選手と監督と似ているのだろうか。
分離しているような一緒でいるような不思議な関係です。
  • 2006/08/26-19:58:15
  • 投稿者 : 小町
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[C3532] 当たり前のことって

コメントをどうぞ
  • 2006/08/26-19:40:19
  • 投稿者 : 小町
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[C3531] >プレーするのは誰?

「監督」というのは何のためにいるのかな、とふと思ってみました。別に監督なんていなくても有能な選手であればいくらでも戦えるだろうし、試合そのものも成り立ちます。それでも、やっぱりチームが戦うには選手を統括する指揮官みたいな役割の人が求められているのでしょう、その理由は選手にズバリ制御をかけることでしょうか、もし監督がいない試合であれば、その試合の勝敗を占術で占うのは監督がいる場合の試合より容易になるような感じがします(根拠はありませんが)。監督がいない場合の方がより選手が運命通り動くような気がするからです。それで、監督によって選手にある種の制御がかかれば、その制御によって選手は少しばかり自由になって、「プレーするのは誰?」ということであれば、その制御の分だけプレーするのは選手になるのではないかと思いました。
  • 2006/08/26-19:35:59
  • 投稿者 : おかだ
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[C3529]

プレイするのは本当に自分なんだろうか・・・・と思いました。
運命がようやく肉体(あればと考えて)を持ったのに思うように動かない自分の身体にもがいてるような気もしました。

走れないのは致命的です。世界で戦うのにおむつをつけてるようなものかもしれないです。

[C3528] 「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」

それはそうですよね。

グランドを走り回って戦っているのは選手たちであって、監督ではないのだから、至極当然なコメントです。

要するに、主役は選手たちであって、監督ではないと言いたいのでしょう。

でも、選手たちは本当に主役なのでしょうか?

選手たちに自分たちは主役なのだと思わせておいて、
自分の構想どおりに選手たちを駒のように自在に動かせる監督のほうが、主役である選手たちよりもよほど上手だと思います。

運命と神様は、人間に人生というドラマの主人公は自分であると思わせておいて、そのときどきに人間が人生に翻弄されるさまを笑いながら見ているのかもしれません。

います。


  • 2006/08/26-14:12:17
  • 投稿者 : ばなな
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[C3527] ゲームボード

サッカーのゲームボードを思い浮かべました。

プラスティック製の選手は、レールに固定されてゲームのプレイヤーの操作によって動きます。
プレイヤーは監督であって選手の代わりも務めます。

実際のゲームでは役割分担ができていますが、あながち構図は相似形だと思います。
サッカー場が広いから等の物理的な要因だけで役割分担ができているといってもおかしくないと思います爆。

ボードゲームのプレイヤーは選手であって監督。
もしこのゲームボード自体が時空であるなら、プレイヤーは人間であって神ということになるかもしれません。

飛びますが、神が人間を操っている一方的な関係ではないように思えます。その逆もそうだと思います。

人間が、神が・・・どちらかという見方ができない。
どちらかがプレーさせるさせられるのではないかも・・・

そんな考えにいたりました。

[C3526] >プレーするのは誰?

スポーツライターの言葉は、オシム監督がしょっぱなからガンガン表出するに対して、選手の立場から述べたことかに聞こえます。
が、選手たるもの自分ひとりを頼りにするよりも、監督から寄越されるもの全てを取り込んでみるのが良いのではと思います。自分という殻を破り、新たな領域が感じられるかも知れないからです。
監督も、選手の個性をチマチマ考慮せず、常に全てをぶつけて出し切っていく先に、つかめる何かがあるかも知れません。
監督と選手がへだたりをとっぱらってぶつかる双方向の太い流れを構築し始めている時期で、勝つためには代替大いにアリが浸透していくのだと思います。
ライターさんは、監督の熱さと選手がそれを受け止めるすべをじゃんじゃん書くのが良いのではと思います。

>当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない
については、人間主導の神というイメージがいくつも存在している現在を表していると思います。
真実の神がどうあろうと知ったこっちゃない、私たちの望む姿を祈ることが大事なのだと取れました。

>当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない
これも、運命が決まっていようがいまいが知ったこっちゃない、願う通りになると信じて突き進むのみ!と聞こえます・・
そうしたい人はそうするのも良いでしょうけど、よぼよぼで動けなくなったとき、「運命を知ってさえいたら・・」と思うかも知れません・・
怖がらないで、知る機会あれば知っておこうかな・・?
  • 2006/08/26-13:37:08
  • 投稿者 : ゆくえ
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[C3525] >トイレトレーニング

>「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」

「当たり前だが、するのは子供であって、親ではない」(トイレトレーニング)だとしたらどうなんだろうと思いました。当たり前なのかどうか…。おむつが外れる前の子供って、どこででもします。膀胱をまったく制御できないから。出てから「あ」と気づくみたいなところもあります。
どこで、どんな風に、どんな時に、どんな手順で、というのは、そういう子供をトイレに置いたって…まったくわからないのではないかと思いました。トイレットペーパーで遊んだり…そこで水遊びする子だっているぐらいですから。トイレは意味が分らなければオモチャです。
オシムって徹底的にシチュエーションと意味をたたきこんでるのかなとおもいました。大人がトイレでカラダが反応してコトをおえるぐらいスムーズにできるように。大人になるとトイレの動作って考えてないよなって思います。惰性に近いぐらいスムーズだなと思います。意識からの侵略みたいです。なんか結構深いスレッドテーマだと…あとから考えては思いました。

[C3524] 「チームのために死んでくれ」

とか「お国のために死んでくれ」と言われたときに「死なね~よ」と言わせないのが「和」なのではないかと思いました。

この自分たちすら普段は意識していない心の奥底にひそむ「和」の鎖をぶった切るのは非常に難しいと思います。サッカーをやる前に文化的な戦いをしなくてはならないというのは、どう考えても監督の仕事ではありません(汗)。

ジーコは相手のチームに負けたのではなく、この「和」の文化という途方もない敵に負けたのかもしれないと思いました。
  • 2006/08/26-11:30:47
  • 投稿者 : ナイル
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[C3523] >「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」

今現在、運命というのは人間にとって未知の領域と言ってよいのだと思います。
とすると、
運命がプレーしている訳ではないと言い切れません。
運命が勝敗を左右しているとも言い切れません。
「選手は大汗かいてガンジガラメの中で、もがいているだけだ」言う人がいても誰も確信もって否定できません(汗)。

[C3522] >これを言ったのはオシムではありません。

オシムという人をよく知っているわけではないので「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」という言葉をオシムが言いそうかどうかということも判断がつきません。オシムの人物研究をしているわけではないのでどちらでもいいのではないかと思いました。

さて、極限状態に陥ったときに、「和」や「チーム愛」そしておそらく「愛国心」も、選手の気力をもちこたえさせないと思います。「じゃあ、そこにあるのは何なんだ」と思います。

「個としての強さ」と言った人もいます。でも、私は90分なお走って倒れる寸前においても「身体が柔軟」であることだと思います。身体が柔軟であればHPのメインからの着想ですが、死角からの発想ができ、そこで自分が何をしなければならないか、どうすれば相手に勝てるかという発想の切り替えが極限状態においてもできると思うからです。

身体の柔軟さは、試合経験やトレーニングを通じて選手が身につけるしかありません。監督や評論家、それに「外野」が何を言ってもどうなるものでもありません。

身体の柔軟さからくる思考の柔軟さや独立性は、勝っている試合でペットボトルをなげつけるオシムがもっているものだと思います。
  • 2006/08/26-10:55:28
  • 投稿者 : ナイル
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[C3521] >プレーするのは誰?

今までの歴代のW杯の監督がこの時のイエメン戦に立ち会っていたらどうしていただろう
かと思い返してみると、誰もオシム氏のように激しく怒る人はいなかったと思います。
言葉が悪いですが、みんな結果オーライだったと思います。
素人の私が言うのもなんですが、だからいつも結果がイマイチで終わっていたのだと思い
ます。
高校野球は今まったく見ていませんが、私が高校生の時はもっと厳しい監督がいたような
気がするのですが、最近はいないと思います。
多分あまり厳しくしすぎると生徒がついていかないからという風潮があって、誉めて長所
を伸ばせというスタンスに変わってきていると思います。
おそらくサッカー界も同じでしょう。
しかしホメようが叱ろうが、監督が“緻密に”思い描いた通りに選手が動きさえすれば、
どのような接し方をしようがどうでもいいのだと思いました。
あの試合中に見せたオシム氏の怒りの動作は、確信犯的にやった部分も否定できません。
あのようなすこし大げさな怒りの態度を取ることによって、選手達に冲をかけて、
「それで本当にいいのか?」という問い返しを起こさせたのではないかと、思いました。
  • 2006/08/26-10:37:22
  • 投稿者 : イーキン
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[C3520] >プレーするのは誰?

①「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」

②「当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない」

③「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」


当たり前が当たり前じゃなくなる。。。

と思いました。


まず、①ですが、実際にからだを動かすのは選手です。なので、監督が試合のコーディネート役であるとすれば、監督は頭脳、・司令塔であり、選手は駒ということになります。

②は神がひとたびつくった世界において、これからの世界を生成し満喫するのは人間であり、人間は自由な存在だ。。

③は運命を生きるの人間だ。。

ということだと思いました。


①②③に共通していえるのは、
からだを使って行為する側と、
からだを動かせない側に分かれている
ということです。


しかし、これまでの運命の研究によれば
運命は時空の始まりから決まったいるという仮説があります。

そして、時空が始まったきっかけは、
時空自身の「私は誰?」
という問いかけでした。

そして、その問いによって、
神は初めて小指を動かした・・
それが運命変更なのではないか・・
という仮説がでました

だとすれば、

これまでは「当然」だったものが、
「問い」をきっかけとして「当然」ではなくなり、

プレーする側と頭脳側が対等になりつつあるのだと思いました。

「当然」を問うたとき、「当然」が当然ではなくなり、
プレーは両者の相互作用といえるのではないかと思うようになりました。


「問い」を発することで、時空の始まりの根源地点に戻ると思いますが、

そこでは、監督と選手、神と人間、運命と人間は分かれていなかったと思います。

しかし、今は、分かれており、
分かれていることが「当然」のように思い込んでいますが、
それは、現時点での「役割」に過ぎないのだと思いました。


 
  • 2006/08/26-10:35:42
  • 投稿者 : あかり
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[C3519] >当たり前のことが当たり前でなくなる

すぐさま思ったのは、「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」の逆のフレーズです。


「当たり前だが、プレーするのは運命(神・監督)であって人間(選手)ではない」


今まさに、こういうことをここで教わってるんじゃないか、と思いました。概念の逆転です。


運命・神が定めた枠の中で、人間は自分の自由にやっている・自分が動かしてる、と思って生きている・・、監督の設定した枠の中で、選手は自分がプレーを作り出したことで勝った、と思ってやっている・・。

昨日のオシム監督が怒った話に戻せば、監督は自分の設定した枠が自分の予想していた勝ち方に繋がらなかったから自分に怒ったのか、はたまた枠は正しかったけれども、選手の勝ち方が自分の設定した枠内での最大値の勝ち方でなかったから選手に怒ったのか、・・。


神や運命は怒ったりしませんから、不動心は山のごとく、だと思います(変更をかければ動きますが、感情はないでしょう)が、オシム監督は人間ゆえに、そこで怒るという運命にさらにあやつられ従っているのだと、そして、自分がその枠をいかに設定するかで、チームの運命を変えられる、と思っている、やはり運命のなかの一つの駒なのかな、と思います。なんか、グルグルしてます。


それにしても、これがトイレトレーニングに繋がるとは、驚きました。置き換えてみれば、親は子供自身が覚えなくてはいけないことだと単純に思っていますが、子供は、教えられなければ、絶対自分から出来るようにはなれませんね(私は自然におしっこできるようになっていくものなのだとずっと思ってましたが)。「当たり前だが、おしっこするのは、親であって子供ではない」と置き換えるとものすごく変ですが、親の枠・設定の中で、子供は自分が出来るように自分でなった、と思っている、という風に考えると、繋がってくるかな、と思いました。
  • 2006/08/26-10:10:26
  • 投稿者 : ぱらむ
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[C3518] >「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」

これを言ったのはオシムではありません。
スポーツ評論家です。
 
念のため・・

[C3517] あはは

なぜに『トイレトレーニング』(笑)
読めない(笑)リアルタイムすぎて(笑)
人間はトレーニング中なのでしょうか。オシムも大変だと思いました。(え、そうなの…?)

[C3516]

>「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」
  ↓
>「当たり前だが、プレーするのは人間であって神ではない」
  ↓
>「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」
 
(o_o;)なんか…読んでてなんじゃこりゃ度120%です。えーもりけんさんにはそう見えたのですか…。なんか視点がぐるんぐるんしすぎてついていけません。私は神について考えた事ないんだと思いました。自由…でも運命と人間は連動(?)してるしなぁー。えーどうなってるんでしょう。変なレスですいません。思考が途切れてます。やーぶっ飛びました。

[C3515] もりけんさんの発想が面白いと思いました

>「ただ、当たり前だが、プレーするのは選手であって監督ではない」

これは私も聞きましたが、特になにもかんじませんでした。それを、

>「当たり前だが、プレーするのは人間であって運命ではない」

ここまで言い換えようという発想は自分にはないからです。

オシムの最初の言葉は、90分間グラウンドで走らなくてはならない選手が、体力の限界を通り越して脚が動かなくなったときに、劣悪な気象条件の中で、それでもプレーを続けなくならなくなった極限状態のときに、また、絶対落とせない試合で点差が開いてしまったときに、気力をもちこたえることができるかどうかは選手自身にかかっている、監督は何もすることはできない、ということだと思います。

もりけんさんの言葉は運命を信じるかどうかにかかわらず、人生を精神的に豊かな充実したもののするかどうかは、その人自身にかかっているということを言っているようなきがします。

  • 2006/08/26-09:48:51
  • 投稿者 : ナイル
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