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-件のコメント

[C4332] 共産主義サッカーと資本主義サッカー

この単語を見て、やはり、オシム監督はサッカー界に革命を起こすのではないかと思いました。

Jリーグのカラーは監督によってチームスタイルがそれぞれちがうと思います。

ジェフの成功と、これからの日本代表の試合結果において、日本が全体サッカーが合っているという事が
証明されればあ、各クラブチームの日本人監督、それも、経験の浅い監督は全員サッカーをとりいれるのではないkと思いました。

そうすれば、選手一人一人の個が生きて、強いチームになるからです。

そして、国際試合でもどんどん勝てるようになっていくのではないかと思いました。

[C4267] サブノート

>「友よ」を歌っていた連中は革命を起こして共産主義の世の中にするのが夢

共産主義サッカーというのがあまりにもよくわからなかったので今日一日考えていました。そして「サブノート」という言葉が浮かびました。

まず、この人たちは共産主義など本当に理解してはいなかったと思います。単に引きづられやすいだけで、人が考えたことを自分が考えてたと思い込んでしまうタイプだと思います。よく言えば素直で高校の授業の時間などはサブノートを作成していたようなタイプです。

私も昔はバカの星のもとに生まれた自分を呪ったものですが(笑)、私を含む凡人は、サブノートなど作ろうと思っても挫折します(笑)。文字を書いている間は何も考えていないことがわかり、思考が停止して退屈だからです。しかしなぜか秀才はつくります。私にとっては永遠の謎です(笑)。

そして最近私が観察したところによれば、サブノートを作成するタイプというのは、一生サブノートを作成することから先へはいけないような気がします。きっと一生意識していようとしていまいと、何かのサブノートを作り続けるような気がします。それ自体が強力な目的になっているような気がします。そして私が学生のときに観察したように、サブノートを作っている間は、間違いなく、その人は何も考えていません。

えんぴつにノートがパソコンに変わっても同じだと思います。たぶんサブノートというのは作れば作るほどバカになっていくのではないかと思います。そしてこれが、秀才がいつしか凡人よりもバカになるメカニズムなのではないかと思います(爆)。

周囲にも居るのですが、何をやっても器用にこなすのですが、いまいち底が浅い人が...(汗)。何をやっても人の二番煎じ(しかし本人は自分はいつも人のコピーではない(汗)と思っている...)というのは、もうこれはわすかながらのオリジナリティを発揮するよりも、はるかにもの凄い才能なのではないかと私は最近その人をある意味、非常に認めています(大汗)。

そして、これは「サブノートの呪い」と呼んでもいいものなのかもしれません(笑)。

要領よく要点をかいつまみ、まるで自分が世界で最初に考え出したかのように筆記する...。そして、「ここは重要」とか「テストにでる!」「頻出、気をつけろ」とか、そんな書き込みもしており、たぶん人が読んだら、かなりしらける類のものです。でも本人は全くそう思ってはいない...。

もりけんさんは、サブノートを作るタイプかどうかわからないで書いています(激汗)。しかし、サブノートタイプが陥りがちな文章の痕跡が見られないところを見ると、たぶん違うと思います。それは、どうしてなのかなと思いました。

それは、陰から陽に変わり、白日の下にさらされたはっきり見えるようになった部分を、どんどん切り捨てていっているからだと思います。

これは私の勝手な想像ですが、もりけんさんはビジョネール・タイプ(あるいはニュートンのよう)で、「見えないものしか見たくない」という人のではないかと思います。ひっくりかえせば、誰でも見えるものを見ることに興味がないのかもしれません。これは言葉を変えれば「知りたい」ということだと思います。

「見えないものを見たい」というのは矛盾した欲望です...。

ふと思ったのですが、もりけんさんは、少なくてもブログのレスに関しては、サブノートのようにきちんとまとまったものを、必ずしものぞんではいないのかもしれません。がちがちにコントロールされている必要はなく、ふわっとしたオムレツみたいなものでいいのではないかと思います。

たぶんオシムも選手をレストランの食事に誘って、注文をする段になって、たまたまその選手がサブノート・タイプで、「何を食べたい」と聞いたとき、「肉でも魚でもありません」と答えられたら、相当しらけると思います。オシムの思考は、浮遊してずっと先まで言っていたのに、一気に現実や地上に引き戻されるからです。それが重しとなって、もう先へはすすめなくなります。

たぶん、ありがたいお経を唱えている間は、人は考えていません。それと一緒で、誰かの言葉をかみしめてよくよく考えるのではなく、ただ口にだしてくりかえし唱えているだけだと、それがたとえオシムの言葉であっても、どんどんその人は、思考停止に陥っていくのではないかと思いました。

「友よ」を歌っていた人たちも、こうしてバカになっていったのかもしれないとふと思いました。
  • 2006/09/20-20:22:16
  • 投稿者 : ナイル
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[C4250] >共産主義サッカーと資本主義サッカー



野球の世界では近年、巨人中心、セ・リーグ中心主義の世界から、全球団が地の利や個性を生かして差別化を計ろうとし、「全球団野球の世界」を作ろうとしています。
さらにオーナー企業の広告塔的な球団の立場から、
独立採算を重視した、球団単立企業へと変化してきています。

チーム編成を見てみても、巨人の補強の仕方に批判があるように、優れた実績のある選手を集めた戦い方がうまく機能していない傾向にあります。
中日やソフトバンクのように選手個人の能力の底上げや適材適所を重視した、個人の実績だけに頼ることのないチームが強くなり、結果を残している傾向にあります。

サッカーでも発足時のベルディ中心主義やチーム内で言えば、カズや中田・中村などのスター選手を中心とした戦い方から、横浜FCやザスパ草津のように地域密着・独立採算でのチーム作りへ変化し、チーム内ではジェフや日本代表のように選手一人一人が駒となる戦い方へ変化してきているように思います。

  • 2006/09/20-07:54:00
  • 投稿者 : キュナード
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[C4238] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

ソ連型共産主義とオシム共産主義はまた違うものだと思います。ソ連型共産主義はアセンションを目指しているような感じがします。プロレタリアート独裁とか、完全な無政府状態の実現とか、共産主義運動の後には実現させる何かがあります。また、ソ連型共産主義は英雄をやたらと好みます。スターリンや毛沢東を、また革命や戦争で功績のあった人物を社会主義の英雄として称え、国家の司令塔に据えます。敢えていえば、理想に向かって進むソ連型共産主義は自力的な共産主義、選手の非英雄化、没個性化、駒化を念頭におくオシム共産主義は他力的な共産主義と考えたいと思います。それで、「私は結果」が世の常識となってきますと、ソ連型共産主義とは違った意味で世界は(オシム共産主義のように)共産化してくると思います。
  • 2006/09/19-22:05:27
  • 投稿者 : おかだ
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[C4233] >共産主義サッカー

共産主義ってそういうことだったのか~と思いました。(共産主義がよくわかってなかったから‥)
  • 2006/09/19-19:54:05
  • 投稿者 : リョウコ
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[C4230] 共産主義サッカー

資本主義サッカーは選手も含めてお金儲けを第一にしているような気がしました。どうやったらお金が儲けられるのかの技術を研く感じです。かたやオシムの共産主義のサッカーとは、お金儲けを考えることがなくなり、その代わりに違うことに時間を費やせるようになったサッカーのような気がします。それは走り続けることが問い続けるしかないに等しい感じがしました。
  • 2006/09/19-18:56:22
  • 投稿者 : なんしぃ
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[C4212]

誰もがボールに向かうことができるし自分の判断で走ることが出来るという点は選手全員が持っています。
実際の試合で選手は余すことなくサッカーをすることが出来ます。
爽快感はこういうところから来るように思います。
駒として平等です。
共産主義は個人の達成感を考えていませんが
オシムのサッカーは選手が普段以上の力が出てきて
とても気持ち良さそうです。
スターばかりが注目されると目立たない選手は自分も試合をしているのにと思ってしまいます。
スターも走れなければ降ろされることがオシムにはあり
走れればどんどん使ってもらえると駒になりきっていて不満はなさそうに思います。
不思議な力量です。
  • 2006/09/18-23:04:50
  • 投稿者 : 小町
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[C4211] 共産主義サッカーと、資本主義サッカー

共産主義サッカーが成り立つためには、
「自分ひとりくらいサボっててもいいや、どうせ評価(収入)は平等・・・」
なんて考える人がいてはならないと思いました。
共産主義サッカーが存続するためには全員が駒であり続けなければならないと思いました。
代替可能な選手はたくさんいます。

資本主義サッカーは、数名の優秀な選手とそれを支える残りの選手達、ピラミッド構造がある感じです。スター選手になりたくてもなれない人がたくさんいます。自分は実力があるのに分かってもらえないと、とっても悔しいです。プレーしていても爽快になれない時もあるでしょう。

でも、共産主義サッカーをしている時には、爽快感を味わうことが出来たのです。
どちらが良いでしょうか。。。私だったら共産主義サッカーです。実力がなくても、自分の役目をきっちり果たしていたら、爽快になれるんですもの。。。

  • 2006/09/18-22:31:30
  • 投稿者 : REI
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[C4209] 共産主義サッカーと資本主義サッカー

崩壊した共産主義には致命的な部分があったのではないか・・
それは、個の快を否定していた部分だと思っています。
 
人は快の方向へ進みます。
独裁者や一部の権力者に統治されるより、平等の方がより快が大きかった。
 
共産主義が生まれた背景には、この部分があると思います。
全体主義になっていくと、個の快より、全体のほうが大事になってきます。

しかし、快を否定しても、しきれるものではないと思います。
崩壊した共産主義の国々では、否定した個の快によって崩壊したのかもしれません。
 
オシムの目指すサッカーは、共産主義的だと思います。
ただ、大きな違いは、ゲームの中に今まで味わったことの無い、個の快があることだと思いました。
  • 2006/09/18-20:39:46
  • 投稿者 : 福
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[C4206] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

横をみたら、くろこが目に入ってきました。

全員が脇にいる黒子・・。

共産主義の社会は、努力するだけ無駄らしいです。
ということは、そのことに気づいたら、積み上げることには意識がいかなくなると思いました。
実績は個人の手からは取り上げられるわけですから。

そうなると、側面に意識が向き出すように思います

みんな、脇にいる黒子なんだと思いました。
ときどき、いじられて、にゃ~って言ってみたりするのも楽しいかも。どんな展開が起こってくるのか、ワクワク。

そんな、ネコのくろこ11匹が、グラウンドを駆け回るのが、オシムのサッカー、共産主義のサッカーのように思いました。
  • 2006/09/18-17:53:21
  • 投稿者 : くまぽん
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[C4205] 共産主義はたぶん百姓かも

今や共産主義を標榜する国々は一見そうでありながら、一部の権力者による独裁国家と化していいて、共産主義とはほど遠いでしょう。

もりけんさんが書かれている共産主義のイメージ
>「個」は抹消され、駒と化します。
は、日本古来からある百姓の姿に似ている気がしました。

大名などに支配されていないころは、自給自足であまったら足りないところに分け与えてという、正に「共産」主義だったのだと思います。

後々大名などは偉そうに支配していましたが、結局の百姓からの年貢が無ければおまんま食い上げです。

また百姓一揆でも無数の匿名の個が一致団結して集合的存在として大きな勢力となります。

百姓一揆という生命体の中では役割は色々変わっていったのだと思います。
お前は伝言係だけど、あいつやられたから変わって切り込みやってくれとかあったのでしょう。

オシム監督がやっているのは、古来からあるそれこそ日本という個性を生かしたサッカーである気がしました。

代替可能は変幻自在ともいえます。
もしかしたら時空の性質は百姓にあるような気がしてきました。

[C4203] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

これまでの共産主義には質の低下や生きがいの喪失というような弊害があった気がします。
しかし、オシム・ジャパンの場合は、走れない、守れないとあればスター選手でさえメンバーになれないし、逆にスター選手でなくてもチャンスはあるので、質の低下は起こらずむしろ上がると思います。
また、生きがいに関しては、すでにジェフの選手で証明済みです。
個を手放したことで「サッカーは美しく、こんなにも楽しいものだったのか」というこれまでにない爽快感が生じています。
その爽快感がさらに質を上げるのではないかと思います。
また、共産主義社会には独裁がつきものですが、オシムにはそういうイメージはありません。
オシム自身が駒に徹している感じがします。
選手も監督も駒に徹していてスター選手がいないというところは共産主義的ですが、しかし、共産主義の弊害のようなものは感じられないと思いました。
  • 2006/09/18-15:23:38
  • 投稿者 : くるみ
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[C4201] 仮にボールが

通貨とか権力だと考えてみます。
 オシムのサッカーでは、ボールをどこに出す、出さないというような主体的な行動よりも、どれだけすばやくボールから身を離すことができるか、が求められているように思います。
従来、試合が劣勢になってくると、スター選手ほど、ボールキープの時間が長くなってくるようです。
「人には任せていられない・・自分が何とかしなければいけない」という気持ちが前面に出てきて、ボールをなるべく長く手元にとどめておこうという形になって現れるのでしょうか。
社会運動というのも、おしなべて、劣勢に置かれたスター選手みたいなところがあります。
力のある選手たち--政治力、経済力、知力のある人たち--が「自分こそが、流れを変えよう」「自分が劣勢になったゲームを立て直そう」として、できるだけ長くボールをキープしているような状態が、社会運動だと思います。
当時の左翼の学生たちも、自分が日本社会におけるキープレイヤーであって、自分がゲームを立て直さなければいけない・・という気負いで、ドリブルで切り込んでいったような感じだったのではないでしょうか。つまり、当時の学生たちは、良くも悪くも、日本社会のスター選手だったと思います。
しかし、ボールをキープすることより、さっさと手放すことのほうがはるかに難しいと思います。
「責任感」なんかを持ってしまえば、ボールからはなれることは、より難しくなります。
ところで、資本主義社会では、ボールはボールで、化け物みたいになって勝手に動きまわっていると感じられる局面も多いです。
国際金融危機の状況下におかれた一国の経済など、まるで駒のひとつくらいにしか見えません。
ただし、そういった状況のおいてもなお、「自分だけは駒ではない」「危ないときには自分がボールキープして、市場を立て直さなければならない」と固く信じているスタープレイヤーがいます。
資本主義か、共産主義か・・
これは、ジーコのボールか、オシムのボールか・・と言っているようなことではないでしょうか。
ボールは同じボールだと思います。
 ゲームの流れ自体は、どの時代でも、どの国でもかわらずに流れているようなものではないかと思います。
それは、月日の五行のようなものだと思います。
 社会の変化は、むしろ、スタープレイヤーとボールとの関係に収斂してくるのではないでしょうか。

[C4200] おお~

本当だと思いました。
資本主義サッカーには、いろんな「期待」が集まっているなと
思いました。
共産主義は破綻してきたけれども、共産主義サッカーが
面白そうと思うのはなぜだろうと思います。
プレーしている選手達には爽快感・・。
限られた時間内であるとか、ゴールを決めるとか・・
制約のあるところでの共産主義はいけるのかな・・。
「期待」を背負うスター選手や他の選手達に爽快感はあったのだろうか・・。
共産主義サッカーが良いのか悪いのかは分かりません。
でも見世物のサッカーから選手自身が楽しむサッカーへ
いこうとしているように思います。
選手自身が本当にサッカーを楽しめた時、もしかしたら
優勝も見えてくるのかも・・と思いました。
  • 2006/09/18-11:59:15
  • 投稿者 : まる
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[C4199]

なるほど共産主義サッカーともいえるのですね。。。。

個は抹消されるというのは、スターになるのはいけないというものではないかもと思いました。みんながスターでもいいのではないのでしょうか。みんながスターになればそれもまた対等だと思うのですが。。。。。

前回の
Wカップは中田や中村がスターだからダメだったのではないと思います。
他の選手が被害者意識だったからだと思います。
それゆえに中田に意見を言えずにチームのネットワークが取れなかったのだと思います。
だからボールも自分で持っていけずにすぐにまわしてしまうのではないでしょうか。。。。
駒として日本代表の中にいるということは中田と同じということでもあるから・・・・・
それを有名だとか世界のチームで戦っているからすごい。。。とかいう視点で中田をみてるから自分を被害者と感じるのだと思います。


上手くても芸術的でも華があってもいいじゃん。。。。
全員スターでもいいじゃん。と思います。


王子様はひとりじゃないです。お姫様も一人じゃないです。
白雪姫もオーロラ姫もシンデレラもかぐや姫もいます。
もりけんさんのいう「一人一人が完全」というはそういうものじゃないかなと思うのです。
皆が神なんですから、わたしも女神です(爆)
(ただ好みがあるだけです(爆))


王子とお姫さまでメンバーそろえても、個は対等だし・・・・
メイドだって、りんご姫という名前かもしれません。。。。

[C4197] >共産主義

内部分裂を起こして崩壊した旧ソ連邦、資本主義の利点を上手に取り入れている中国、
他国との関係を遮断して主義を貫く北朝鮮(どこまで貫いているんだかかなり怪しいが)、
を連想します。
しかしオシム氏が目指しているのは共産主義の原型・スタート地点、核となる最小単位の
考え方だと思いました。
主体は「個」ではなく、制度が「主」だという考え方だと思います。
制度が「主」であるならば、選手達だけではなく、監督自身も、コーチ陣も代替可能とな
ります。
11人が同じシュートを打てる、スタメン以外の控えの選手も同じようにできる、守りも
11人で守る、というような試合展開だとすると、11人全員がハーフタイム以外の90
分間は常に止まることなく走り続けて、しかも試合以外の時間も考え続けないと実現でき
ないと思いました。
運命変更ではなく、命式を超える人生とは、「個」の中味をすっかり空にしてしまうことで
あり、それは「個」が制度に徹底して従うことなのかと思いました。
  • 2006/09/18-10:50:12
  • 投稿者 : イーキン
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[C4196] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

かなりピッタリのイメージですね。
そうなるとオシム・ジャパンの行方も想像できますね。

W杯に出場できるが、はやいうちにコケル。

マニアなファンは付くが小人数。

マスコミにいつも叩かれる悪役ってとこですかね。

もりけんさんはオシムに興味あるだけでしょうから
成績は関係ないでしょうけれど。
  • 2006/09/18-10:39:41
  • 投稿者 : 十四郎
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[C4195] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

共産主義と資本主義の違いについて詳しいわけではありませんが、考えてみました。

共産主義は大金持ちや貧乏人がいなくて全人民が平等というイメージがあります。
選手で言うと対等というイメージがありました。
しかし実際は軍部に牛耳られていて思想面でも自由でない印象を持っています。
また平等悪と言ってもいい、努力するだけ無駄という気運が生じて全体を無力感が覆いがちだといいます。
やる気がある人もない人も、結果を出す人も出さない人も同じ報酬では全体の活気までなくなってくるのです。つまり平等の中に不平等感を持つことです。

しかしもりけんさんのいうオシムジャパンの共産主義は少し違うと思います。
突出したスターはいなくて、今のところ地味な個人ばかりですが、チーム全体として突出したサッカーチームになろうとしているのではないかと思います。
チーム全体をスターにするためには突出したスターは必要ないばかりか邪魔なのかもしれません。
スポットライトを浴びない人はますます隅に追いやられ花形選手ばかりが脚光を浴びるだけではチームとして良い成績が残せません。
チーム全体が花形になるためには個は突出することなく、共産主義的に一人ひとりが駒に徹して、そのくせ、各選手がそこに誰もいなくても球を蹴りだすことが出来るようなツーカー状態で、なおかつ全力で疾走できるような状態、そんな無意識の世界ともつながったような試合が出来ればオシムジャパンは突出した成績を残せるに違いありません。

現実の共産主義と違うところは、選手たちは駒としての対等感は持っても不平等感を感じてる暇などないところなのではないかと思います。
  • 2006/09/18-10:35:35
  • 投稿者 : 空タネ
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[C4194] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

タイトル=もりけんさんの視点にビックリしました!
ykさん勉強になります、ありがとうございます♪
父が赤旗新聞を取っていたのですが、どんな思いがあったろう・・と亡くなった後、母に尋ねると、「ああ、あれは同級生の○○さんから頼まれたからよ」とそれだけでした・・チャンチャン!
肉体の共産主義が不可能だったのではないかと思いました。
人は求め合い反発しあう生き物なので、横並びし同一化された人間ばっかりの社会では、退屈&無感動、喜びを見いだすことは難しそうです。
自己表現のためにも、友や恋を求めるにも、何より個性を必要とする気がします。
それには、できるだけ何かを身にまとうことが必要となり、物質的豊かさを欲するようになるのではと思います。
一方、精神の共産主義、平等というのは、もしかしたら人は皆、心の奥底で求めていることかも知れないと思います。
もりけんさんが常々言われる対等、水平とはこのことかと思いますが、もりけんさんのサイトではどこの誰であろうと対等に参加可能です。
それはもう、最近上場したというSNSの話を聞いても関心持てないくらい、ここの刺激はものすごいと思います。
平穏よりも刺激の方が快感なのだとここで知った気さえします。
精神性の対等性を、誰もが望むことだとしたら、スポーツにおいてもそうだと思います。
スター選手とそうでない選手が、モロモロの条件差を比較されたり飲み込みながらプレイするのには、どこか重さがつきまとう気がしますが、、メンバーが皆、平等な精神性でつながったプレイというのは、余計な感情抜きならではの燃焼効率最大限という熱いプレイが限りなく続く気がしてきました・・
  • 2006/09/18-09:42:52
  • 投稿者 : ゆくえ
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[C4193] 共産主義サッカー

今まで、俊輔や中田の個人技にみとれ個人を追い掛けテマシタ。始めはこのHPでも個人的にもりけんさんを追い掛けてました。しかし、携帯でアクセス出来るに様なってからブログやHPに名前を連ねる常連さんがたはもとより、みなさんの書き込みをロムするようになってきました。するとやめられない止まらないの状態です。まさに、全体です。この味をあじわうとおもしろくて今までにないHPのようです。私の視点が変わったかのようです。
  • 2006/09/18-09:39:24
  • 投稿者 : じんのり
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[C4192] 共産主義サッカーというものを

1時間考えているのですが、果たしてそういうものが成り立つか、私にはわかりませんでした。

俊輔のアシストのシーンをTVで見ました。本当に素晴らしいボールで、ひとりの素晴らしいパスを出すプレーヤーとしてという理由だけで、俊輔が起用されているということがよくわかりました。

俊輔自身も非常にリラックスしているようで全日本という重い看板を背負ってやるよりも、自分が駄目なら自分が消えりゃいいだけ、というようなさばさばしたものを感じました。

またU-17の北朝鮮戦の試合のダイジェストをTVで見たのですが、選手たちはまだ筋肉があまりないせいか、身が軽く動きがすばやく、ペナルティエリア内で蹴るチャンスを掴んだときも驚くほど落ち着いていたのが印象的でした。また、複数の選手が、相手ゴールを脅かすチャンスがあれば必ずシュートに結び付けて蹴るということを徹底してやっており、そうしなかったプレーを解説者は「(パスをださずに)自分で蹴ってもよかったと思います」と指摘していました。ミドルシュートも、外れたものが多かったのですが、何本も選手たちは果敢に打っていっていました。

正直言って、オール・ジャパンの試合より面白かったです。逆に、日本という看板を背負ったときに、選手たちは普段着のプレーが出来なくなってしまうものなのではないかと思いました。

オシムは若い選手を入れることで、自分たちが普段目指しているサッカーがどんなものか、選手たちに思い出させ刺激を与えているのかなと思いました。

ファンの立場からすれば、オシムのチームには、全日本の看板を過度に背負ってやってほしくありません。選手たちには、俺がスターに、ではなく、つけはどうせ全部俺にくるんだと思って(笑)のびのびやってくれればそれで満足だと思いました。
  • 2006/09/18-08:58:50
  • 投稿者 : ナイル
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[C4191] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

前回大会の日本代表では、中田(英)選手や中村選手が中心のイメージがありました。なんといっても彼らは素人からみても上手です。

でも、前回の代表では選手のいない所に、中田選手が他の選手を信じて出したボールがただ誰もいないスペースを転がり、中田選手が天を仰ぐといったことが何度もありました。
また、テクニックのある中村選手の所にボールを預けすぎで、これが相手に読まれてしまい、逆にボールを奪われたり、出しどころが無く後手にまわるシーンも多かったような気がします。
こういうシーンは観ていても辛いものでした。

これらのことが起こるのは選手間の意識が対等でないからかもしれないと思いました。
これはサッカーを観戦する側もそうですが、どうしたって中田選手や中村選手に頼ってゲームを作るような雰囲気があった気がします。
例えこれが、小笠原選手や小野選手に代わっても同じような中心選手や創造性のある選手に頼るようなゲーム作りになっていたような気もします。
もちろん、そんなに単純じゃないと思いますが(汗)

中心を張る実力や創造性といった能力はピッチではあった方が有利になることもあると思います。
しかし、これは代替可能な駒として初めて有効なのかもしれないと思いました。
これが、テレビや雑誌で注目される選手がそれに応えようと中心で創造性を発揮しようと思っていたり(ゲーム中はそんなこと考えている暇なんて無いとは思いますが、例えば普段とか)、逆に注目される選手に他の選手や監督や観客が中心で創造性を発揮してもらおうと思っていたりしていたら、ゲームがちぐはぐなものになってしまうのかもしれません。

そういえば、新聞などで見たのですが、オシム監督のサッカーはスター選手を使わないから金にならないという不安の声も挙がってきています。
マスコミはスポンサーの味方なので、無理矢理にでもスター選手を作ったり、「スター選手を使わないオシムは間違っている!」みたいなネガティブキャンペーンをするかもしれません(汗)
前途多難かもしれませんが、オシム監督はそんな雑音無視してスターをそろえても作れないようなゲームが次々に生まれてくるような気がします。

[C4190] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

共産主義のベースになる唯物史観を考えてみますと、経済的構造が現実の土台であるということで、その上に法律、政治などは上部構造として乗って土台が上部構造を規定しているという考えなのですが、オシムのサッカーとしてとらえてみますと、サッカーの組織的構造が現実の土台として存在し、それは中心選手にボールを集めるようなものではなく、誰もが駒として代替可能であるという組織という土台の継続性からも経済的構造という最初にあるきものの構造というのが似てるように思いました。 
 法律・政治は、チームルールと戦略に置き換えてみるとわかりやすいと思います。組織的構造が戦略を規定しているサッカー、そしてチームという総体としての構造が主体となるサッカー、それが共産主義サッカーかなと思いました。それは、崩壊した共産圏の指導者のようにシステムを悪用するものがない限りしばらく続くような気がしました。
  • 2006/09/18-05:30:51
  • 投稿者 : yk
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[C4189]


政治には詳しくないので、イメージの部分もあるのですが・・
共産主義というと、百匹目のサル現象っぽいものを感じます。
大衆は横並び一線で、同じことを考え・・・でもその上にそれを操る人がいる・・というような。
そしてその上の一部だけが利益をこうむってるような・・。
でも、オシム監督のサッカーにそれは感じません。
実際、オシム監督がご主人様となり、選手を操っているかというと、ジェフの快進撃をうかがっても、そうではないと思います。
でも、やっぱりスターはいないし、スターになろうというものもいない・・
ここで、オシム監督もまた、スターになろうとしていないところも、私の中でのこれまでの共産主義のイメージとは違うと思いました。
オシム監督のやり方が理解されにくいのは、私たちや社会の中に、個人が自分の力を伸ばすこと、結果を出すことが大事で、そしてそれらを成し遂げたスターの存在が必要・・というようなな考えが、染み込んでいるからかもしれないと思いました。

[C4188] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

共産主義サッカーと資本主義サッカーというのは、今ひとつよくわかりませんが、オシム氏のサッカーは1人の(あるいは少数)の固定されたスター→全体のスター(個という視点で見れば、その時その時で入れ替わる、代表になれれば誰でもなる事が可能)にだと思います。どちらに夢があるかといえば私は後者だと思います。また、後者のほうが世界の強豪を相手に勝つ事も夢ではなくなるように思います.オシム氏のサッカーはファン層を変えていくかもしれないと思います。

[C4186] 共産主義サッカー

言えてる!
共産主義国でもフットボールは、資本を夢見させてくれるけどね。
幻想ではなく実利を生むには、これからの時代、発想の逆転がキーポイントなのかも。
  • 2006/09/18-04:05:38
  • 投稿者 : Rica
  • URL
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[C4185] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

>かたやオシムのは、全体でスターになるというものです。
>「個」は抹消され、駒と化します。
>これは共産主義サッカーと言えないでしょうか?


全体でスターになる。。


個は抹消され、駒と化しますが、
逆説的ではありますが、
その状態において、個は、全体の中で、実力以上の力を発揮できるようになるのではないかと思いました。

爽快感・・
を、感じていることが、それを表していると思います。

「個」がスターとなるサッカーでは、
誰にとっても、スターになることが目標としてあると思います。
上位の存在がいれば、どうしても、そこに気がいってしまいます。
しかし、オシムのチームに、そんな存在はいないから、
どこにも気が散ることなく、プレーをすることができるのだと思いました。


考えて走る・・けれども、
余計なことを考えない・・

状態なのだと思いました。


 
  • 2006/09/18-02:38:56
  • 投稿者 : あかり
  • URL
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[C4184]

DVD「究極のいい運命へ神とつながれ」以来、そう言う事かぁ~と、人のあるべき姿が判ったように思ったのです。あるいはボルボックスの様に一細胞としてその役割をになってこそ、生きていけると。人は全て、平等なのだと。横一線で無意識に意識を統一して事天国(理想の世界)がじつげんするのだと。・・・・・今はそんな所の理解でいます。武蔵野物語も面白かったのですが、オシム氏の見方も鋭いでね。一気に読んで島しました。
  • 2006/09/18-02:19:49
  • 投稿者 : sachi
  • URL
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[C4182] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

 
共産主義サッカー。。。共に産むサッカー。。。
まさに駒が集まって機能して作り出すサッカーだと思いました。
 
でも「共産主義」と聞いて、今まで私が思い浮かべたのは、みんなが上から抑え
つけられて身動きが出来ない、我慢するというイメージでした。
 
でもオシムのサッカーは、同じ共産主義で、全員が駒だったとしても、押さえつ
けられて身動きが出来ないというイメージとは程遠いように思います。
 
むしろ走って走って、考えて考えて。。。全然押さえつけられていないと思いま
した。
 
今までの共産主義と違うのは、「みんなが同じならいい」のではなく、「みんな
が同じ立場で思いきり動いて、全体で大きな事を達成する」ということだと思い
ました。
 
  • 2006/09/18-01:51:24
  • 投稿者 : ぷく
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[C4181]

>「共産主義はやはりダメだ」と思われました。
 
そうそう、ダメだから廃れたのかと思ってました。資本主義のほうがなんか人の本質に沿ってていいのかなと思ってたのです……しかし、思ったのですが…いままでの共産主義というのは(以下詳しくないので想像)個の平等という事に対しては敏感だったような印象があります。(印象の話しですいません)しかし横一列なのに、平等という単語はどっか…もらう方として考えてると言うか。もしオシムのサッカーがそれと違うなら、このブログで考えてきた事には…「対等」というコトじゃないのかなと思います。ホントの横一線という事はどういうことなのか…ではないのかと思いました。そこに選手が涙した「快」があるのかなと思います。

[C4180] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

・・難しくないなずの言葉に惑わされないように
しよう(汗)
そうか・・共産主義ってそうゆう事なのかと
思いました。
全体でスター・・でも上手くイカないと「ダメ」とゆう
ことになってしまうのか・・(それも人がそう考えるだけ
なのかもしれませんが)
私の今の暮らしは「個」の利益が確保されているように
感じます。正直言って、社会の事話せるレベル(・・笑)
ではありませんが・・
でもそう考えると、オシム監督のしようとしていることは
すごく困難な道なのかと思いました。
体制を変える・・をたったひとりで、流されずに行う
って出来るのだろうか・・
華のないスター達の活躍は・・スター選手も同じなの
ですが・・経済効果を考えると、スター選手を使った方が
たとえ、試合で負けたとしても・・利益に関しての損害は
少ないのかもしれません。
そうか・・「オシム監督のやり方は面白い」だけではないんだ
と思います。
でも、そんなオシム監督を選んだのも日本人です。




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共産主義サッカーと資本主義サッカー

 
 今までのサッカーは「個」を中心とするものでした。スター選手になるのが選手たちの夢でもあり、観客の要求でもありました。
 それは資本主義サッカーとは言えないでしょうか?
 
 かたやオシムのは、全体でスターになるというものです。
「個」は抹消され、駒と化します。
 これは共産主義サッカーと言えないでしょうか?
 
 私が高校時代、「友よ」を歌っていた連中は革命を起こして共産主義の世の中にするのが夢でした。
 
 しかし・・
 破綻しました。
 
 同様にベルリンの壁も崩れ、
「共産主義はやはりダメだ」
 と思われました。
 
 しかし・・
 サッカーにおいてまさに今、共産主義が起ころうとしているのではないでしょうか・・。
 
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31件のコメント

[C4332] 共産主義サッカーと資本主義サッカー

この単語を見て、やはり、オシム監督はサッカー界に革命を起こすのではないかと思いました。

Jリーグのカラーは監督によってチームスタイルがそれぞれちがうと思います。

ジェフの成功と、これからの日本代表の試合結果において、日本が全体サッカーが合っているという事が
証明されればあ、各クラブチームの日本人監督、それも、経験の浅い監督は全員サッカーをとりいれるのではないkと思いました。

そうすれば、選手一人一人の個が生きて、強いチームになるからです。

そして、国際試合でもどんどん勝てるようになっていくのではないかと思いました。

[C4267] サブノート

>「友よ」を歌っていた連中は革命を起こして共産主義の世の中にするのが夢

共産主義サッカーというのがあまりにもよくわからなかったので今日一日考えていました。そして「サブノート」という言葉が浮かびました。

まず、この人たちは共産主義など本当に理解してはいなかったと思います。単に引きづられやすいだけで、人が考えたことを自分が考えてたと思い込んでしまうタイプだと思います。よく言えば素直で高校の授業の時間などはサブノートを作成していたようなタイプです。

私も昔はバカの星のもとに生まれた自分を呪ったものですが(笑)、私を含む凡人は、サブノートなど作ろうと思っても挫折します(笑)。文字を書いている間は何も考えていないことがわかり、思考が停止して退屈だからです。しかしなぜか秀才はつくります。私にとっては永遠の謎です(笑)。

そして最近私が観察したところによれば、サブノートを作成するタイプというのは、一生サブノートを作成することから先へはいけないような気がします。きっと一生意識していようとしていまいと、何かのサブノートを作り続けるような気がします。それ自体が強力な目的になっているような気がします。そして私が学生のときに観察したように、サブノートを作っている間は、間違いなく、その人は何も考えていません。

えんぴつにノートがパソコンに変わっても同じだと思います。たぶんサブノートというのは作れば作るほどバカになっていくのではないかと思います。そしてこれが、秀才がいつしか凡人よりもバカになるメカニズムなのではないかと思います(爆)。

周囲にも居るのですが、何をやっても器用にこなすのですが、いまいち底が浅い人が...(汗)。何をやっても人の二番煎じ(しかし本人は自分はいつも人のコピーではない(汗)と思っている...)というのは、もうこれはわすかながらのオリジナリティを発揮するよりも、はるかにもの凄い才能なのではないかと私は最近その人をある意味、非常に認めています(大汗)。

そして、これは「サブノートの呪い」と呼んでもいいものなのかもしれません(笑)。

要領よく要点をかいつまみ、まるで自分が世界で最初に考え出したかのように筆記する...。そして、「ここは重要」とか「テストにでる!」「頻出、気をつけろ」とか、そんな書き込みもしており、たぶん人が読んだら、かなりしらける類のものです。でも本人は全くそう思ってはいない...。

もりけんさんは、サブノートを作るタイプかどうかわからないで書いています(激汗)。しかし、サブノートタイプが陥りがちな文章の痕跡が見られないところを見ると、たぶん違うと思います。それは、どうしてなのかなと思いました。

それは、陰から陽に変わり、白日の下にさらされたはっきり見えるようになった部分を、どんどん切り捨てていっているからだと思います。

これは私の勝手な想像ですが、もりけんさんはビジョネール・タイプ(あるいはニュートンのよう)で、「見えないものしか見たくない」という人のではないかと思います。ひっくりかえせば、誰でも見えるものを見ることに興味がないのかもしれません。これは言葉を変えれば「知りたい」ということだと思います。

「見えないものを見たい」というのは矛盾した欲望です...。

ふと思ったのですが、もりけんさんは、少なくてもブログのレスに関しては、サブノートのようにきちんとまとまったものを、必ずしものぞんではいないのかもしれません。がちがちにコントロールされている必要はなく、ふわっとしたオムレツみたいなものでいいのではないかと思います。

たぶんオシムも選手をレストランの食事に誘って、注文をする段になって、たまたまその選手がサブノート・タイプで、「何を食べたい」と聞いたとき、「肉でも魚でもありません」と答えられたら、相当しらけると思います。オシムの思考は、浮遊してずっと先まで言っていたのに、一気に現実や地上に引き戻されるからです。それが重しとなって、もう先へはすすめなくなります。

たぶん、ありがたいお経を唱えている間は、人は考えていません。それと一緒で、誰かの言葉をかみしめてよくよく考えるのではなく、ただ口にだしてくりかえし唱えているだけだと、それがたとえオシムの言葉であっても、どんどんその人は、思考停止に陥っていくのではないかと思いました。

「友よ」を歌っていた人たちも、こうしてバカになっていったのかもしれないとふと思いました。
  • 2006/09/20-20:22:16
  • 投稿者 : ナイル
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[C4250] >共産主義サッカーと資本主義サッカー



野球の世界では近年、巨人中心、セ・リーグ中心主義の世界から、全球団が地の利や個性を生かして差別化を計ろうとし、「全球団野球の世界」を作ろうとしています。
さらにオーナー企業の広告塔的な球団の立場から、
独立採算を重視した、球団単立企業へと変化してきています。

チーム編成を見てみても、巨人の補強の仕方に批判があるように、優れた実績のある選手を集めた戦い方がうまく機能していない傾向にあります。
中日やソフトバンクのように選手個人の能力の底上げや適材適所を重視した、個人の実績だけに頼ることのないチームが強くなり、結果を残している傾向にあります。

サッカーでも発足時のベルディ中心主義やチーム内で言えば、カズや中田・中村などのスター選手を中心とした戦い方から、横浜FCやザスパ草津のように地域密着・独立採算でのチーム作りへ変化し、チーム内ではジェフや日本代表のように選手一人一人が駒となる戦い方へ変化してきているように思います。

  • 2006/09/20-07:54:00
  • 投稿者 : キュナード
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[C4238] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

ソ連型共産主義とオシム共産主義はまた違うものだと思います。ソ連型共産主義はアセンションを目指しているような感じがします。プロレタリアート独裁とか、完全な無政府状態の実現とか、共産主義運動の後には実現させる何かがあります。また、ソ連型共産主義は英雄をやたらと好みます。スターリンや毛沢東を、また革命や戦争で功績のあった人物を社会主義の英雄として称え、国家の司令塔に据えます。敢えていえば、理想に向かって進むソ連型共産主義は自力的な共産主義、選手の非英雄化、没個性化、駒化を念頭におくオシム共産主義は他力的な共産主義と考えたいと思います。それで、「私は結果」が世の常識となってきますと、ソ連型共産主義とは違った意味で世界は(オシム共産主義のように)共産化してくると思います。
  • 2006/09/19-22:05:27
  • 投稿者 : おかだ
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[C4233] >共産主義サッカー

共産主義ってそういうことだったのか~と思いました。(共産主義がよくわかってなかったから‥)
  • 2006/09/19-19:54:05
  • 投稿者 : リョウコ
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[C4230] 共産主義サッカー

資本主義サッカーは選手も含めてお金儲けを第一にしているような気がしました。どうやったらお金が儲けられるのかの技術を研く感じです。かたやオシムの共産主義のサッカーとは、お金儲けを考えることがなくなり、その代わりに違うことに時間を費やせるようになったサッカーのような気がします。それは走り続けることが問い続けるしかないに等しい感じがしました。
  • 2006/09/19-18:56:22
  • 投稿者 : なんしぃ
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[C4212]

誰もがボールに向かうことができるし自分の判断で走ることが出来るという点は選手全員が持っています。
実際の試合で選手は余すことなくサッカーをすることが出来ます。
爽快感はこういうところから来るように思います。
駒として平等です。
共産主義は個人の達成感を考えていませんが
オシムのサッカーは選手が普段以上の力が出てきて
とても気持ち良さそうです。
スターばかりが注目されると目立たない選手は自分も試合をしているのにと思ってしまいます。
スターも走れなければ降ろされることがオシムにはあり
走れればどんどん使ってもらえると駒になりきっていて不満はなさそうに思います。
不思議な力量です。
  • 2006/09/18-23:04:50
  • 投稿者 : 小町
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[C4211] 共産主義サッカーと、資本主義サッカー

共産主義サッカーが成り立つためには、
「自分ひとりくらいサボっててもいいや、どうせ評価(収入)は平等・・・」
なんて考える人がいてはならないと思いました。
共産主義サッカーが存続するためには全員が駒であり続けなければならないと思いました。
代替可能な選手はたくさんいます。

資本主義サッカーは、数名の優秀な選手とそれを支える残りの選手達、ピラミッド構造がある感じです。スター選手になりたくてもなれない人がたくさんいます。自分は実力があるのに分かってもらえないと、とっても悔しいです。プレーしていても爽快になれない時もあるでしょう。

でも、共産主義サッカーをしている時には、爽快感を味わうことが出来たのです。
どちらが良いでしょうか。。。私だったら共産主義サッカーです。実力がなくても、自分の役目をきっちり果たしていたら、爽快になれるんですもの。。。

  • 2006/09/18-22:31:30
  • 投稿者 : REI
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[C4209] 共産主義サッカーと資本主義サッカー

崩壊した共産主義には致命的な部分があったのではないか・・
それは、個の快を否定していた部分だと思っています。
 
人は快の方向へ進みます。
独裁者や一部の権力者に統治されるより、平等の方がより快が大きかった。
 
共産主義が生まれた背景には、この部分があると思います。
全体主義になっていくと、個の快より、全体のほうが大事になってきます。

しかし、快を否定しても、しきれるものではないと思います。
崩壊した共産主義の国々では、否定した個の快によって崩壊したのかもしれません。
 
オシムの目指すサッカーは、共産主義的だと思います。
ただ、大きな違いは、ゲームの中に今まで味わったことの無い、個の快があることだと思いました。
  • 2006/09/18-20:39:46
  • 投稿者 : 福
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[C4206] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

横をみたら、くろこが目に入ってきました。

全員が脇にいる黒子・・。

共産主義の社会は、努力するだけ無駄らしいです。
ということは、そのことに気づいたら、積み上げることには意識がいかなくなると思いました。
実績は個人の手からは取り上げられるわけですから。

そうなると、側面に意識が向き出すように思います

みんな、脇にいる黒子なんだと思いました。
ときどき、いじられて、にゃ~って言ってみたりするのも楽しいかも。どんな展開が起こってくるのか、ワクワク。

そんな、ネコのくろこ11匹が、グラウンドを駆け回るのが、オシムのサッカー、共産主義のサッカーのように思いました。
  • 2006/09/18-17:53:21
  • 投稿者 : くまぽん
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[C4205] 共産主義はたぶん百姓かも

今や共産主義を標榜する国々は一見そうでありながら、一部の権力者による独裁国家と化していいて、共産主義とはほど遠いでしょう。

もりけんさんが書かれている共産主義のイメージ
>「個」は抹消され、駒と化します。
は、日本古来からある百姓の姿に似ている気がしました。

大名などに支配されていないころは、自給自足であまったら足りないところに分け与えてという、正に「共産」主義だったのだと思います。

後々大名などは偉そうに支配していましたが、結局の百姓からの年貢が無ければおまんま食い上げです。

また百姓一揆でも無数の匿名の個が一致団結して集合的存在として大きな勢力となります。

百姓一揆という生命体の中では役割は色々変わっていったのだと思います。
お前は伝言係だけど、あいつやられたから変わって切り込みやってくれとかあったのでしょう。

オシム監督がやっているのは、古来からあるそれこそ日本という個性を生かしたサッカーである気がしました。

代替可能は変幻自在ともいえます。
もしかしたら時空の性質は百姓にあるような気がしてきました。

[C4203] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

これまでの共産主義には質の低下や生きがいの喪失というような弊害があった気がします。
しかし、オシム・ジャパンの場合は、走れない、守れないとあればスター選手でさえメンバーになれないし、逆にスター選手でなくてもチャンスはあるので、質の低下は起こらずむしろ上がると思います。
また、生きがいに関しては、すでにジェフの選手で証明済みです。
個を手放したことで「サッカーは美しく、こんなにも楽しいものだったのか」というこれまでにない爽快感が生じています。
その爽快感がさらに質を上げるのではないかと思います。
また、共産主義社会には独裁がつきものですが、オシムにはそういうイメージはありません。
オシム自身が駒に徹している感じがします。
選手も監督も駒に徹していてスター選手がいないというところは共産主義的ですが、しかし、共産主義の弊害のようなものは感じられないと思いました。
  • 2006/09/18-15:23:38
  • 投稿者 : くるみ
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[C4201] 仮にボールが

通貨とか権力だと考えてみます。
 オシムのサッカーでは、ボールをどこに出す、出さないというような主体的な行動よりも、どれだけすばやくボールから身を離すことができるか、が求められているように思います。
従来、試合が劣勢になってくると、スター選手ほど、ボールキープの時間が長くなってくるようです。
「人には任せていられない・・自分が何とかしなければいけない」という気持ちが前面に出てきて、ボールをなるべく長く手元にとどめておこうという形になって現れるのでしょうか。
社会運動というのも、おしなべて、劣勢に置かれたスター選手みたいなところがあります。
力のある選手たち--政治力、経済力、知力のある人たち--が「自分こそが、流れを変えよう」「自分が劣勢になったゲームを立て直そう」として、できるだけ長くボールをキープしているような状態が、社会運動だと思います。
当時の左翼の学生たちも、自分が日本社会におけるキープレイヤーであって、自分がゲームを立て直さなければいけない・・という気負いで、ドリブルで切り込んでいったような感じだったのではないでしょうか。つまり、当時の学生たちは、良くも悪くも、日本社会のスター選手だったと思います。
しかし、ボールをキープすることより、さっさと手放すことのほうがはるかに難しいと思います。
「責任感」なんかを持ってしまえば、ボールからはなれることは、より難しくなります。
ところで、資本主義社会では、ボールはボールで、化け物みたいになって勝手に動きまわっていると感じられる局面も多いです。
国際金融危機の状況下におかれた一国の経済など、まるで駒のひとつくらいにしか見えません。
ただし、そういった状況のおいてもなお、「自分だけは駒ではない」「危ないときには自分がボールキープして、市場を立て直さなければならない」と固く信じているスタープレイヤーがいます。
資本主義か、共産主義か・・
これは、ジーコのボールか、オシムのボールか・・と言っているようなことではないでしょうか。
ボールは同じボールだと思います。
 ゲームの流れ自体は、どの時代でも、どの国でもかわらずに流れているようなものではないかと思います。
それは、月日の五行のようなものだと思います。
 社会の変化は、むしろ、スタープレイヤーとボールとの関係に収斂してくるのではないでしょうか。

[C4200] おお~

本当だと思いました。
資本主義サッカーには、いろんな「期待」が集まっているなと
思いました。
共産主義は破綻してきたけれども、共産主義サッカーが
面白そうと思うのはなぜだろうと思います。
プレーしている選手達には爽快感・・。
限られた時間内であるとか、ゴールを決めるとか・・
制約のあるところでの共産主義はいけるのかな・・。
「期待」を背負うスター選手や他の選手達に爽快感はあったのだろうか・・。
共産主義サッカーが良いのか悪いのかは分かりません。
でも見世物のサッカーから選手自身が楽しむサッカーへ
いこうとしているように思います。
選手自身が本当にサッカーを楽しめた時、もしかしたら
優勝も見えてくるのかも・・と思いました。
  • 2006/09/18-11:59:15
  • 投稿者 : まる
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[C4199]

なるほど共産主義サッカーともいえるのですね。。。。

個は抹消されるというのは、スターになるのはいけないというものではないかもと思いました。みんながスターでもいいのではないのでしょうか。みんながスターになればそれもまた対等だと思うのですが。。。。。

前回の
Wカップは中田や中村がスターだからダメだったのではないと思います。
他の選手が被害者意識だったからだと思います。
それゆえに中田に意見を言えずにチームのネットワークが取れなかったのだと思います。
だからボールも自分で持っていけずにすぐにまわしてしまうのではないでしょうか。。。。
駒として日本代表の中にいるということは中田と同じということでもあるから・・・・・
それを有名だとか世界のチームで戦っているからすごい。。。とかいう視点で中田をみてるから自分を被害者と感じるのだと思います。


上手くても芸術的でも華があってもいいじゃん。。。。
全員スターでもいいじゃん。と思います。


王子様はひとりじゃないです。お姫様も一人じゃないです。
白雪姫もオーロラ姫もシンデレラもかぐや姫もいます。
もりけんさんのいう「一人一人が完全」というはそういうものじゃないかなと思うのです。
皆が神なんですから、わたしも女神です(爆)
(ただ好みがあるだけです(爆))


王子とお姫さまでメンバーそろえても、個は対等だし・・・・
メイドだって、りんご姫という名前かもしれません。。。。

[C4197] >共産主義

内部分裂を起こして崩壊した旧ソ連邦、資本主義の利点を上手に取り入れている中国、
他国との関係を遮断して主義を貫く北朝鮮(どこまで貫いているんだかかなり怪しいが)、
を連想します。
しかしオシム氏が目指しているのは共産主義の原型・スタート地点、核となる最小単位の
考え方だと思いました。
主体は「個」ではなく、制度が「主」だという考え方だと思います。
制度が「主」であるならば、選手達だけではなく、監督自身も、コーチ陣も代替可能とな
ります。
11人が同じシュートを打てる、スタメン以外の控えの選手も同じようにできる、守りも
11人で守る、というような試合展開だとすると、11人全員がハーフタイム以外の90
分間は常に止まることなく走り続けて、しかも試合以外の時間も考え続けないと実現でき
ないと思いました。
運命変更ではなく、命式を超える人生とは、「個」の中味をすっかり空にしてしまうことで
あり、それは「個」が制度に徹底して従うことなのかと思いました。
  • 2006/09/18-10:50:12
  • 投稿者 : イーキン
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[C4196] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

かなりピッタリのイメージですね。
そうなるとオシム・ジャパンの行方も想像できますね。

W杯に出場できるが、はやいうちにコケル。

マニアなファンは付くが小人数。

マスコミにいつも叩かれる悪役ってとこですかね。

もりけんさんはオシムに興味あるだけでしょうから
成績は関係ないでしょうけれど。
  • 2006/09/18-10:39:41
  • 投稿者 : 十四郎
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[C4195] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

共産主義と資本主義の違いについて詳しいわけではありませんが、考えてみました。

共産主義は大金持ちや貧乏人がいなくて全人民が平等というイメージがあります。
選手で言うと対等というイメージがありました。
しかし実際は軍部に牛耳られていて思想面でも自由でない印象を持っています。
また平等悪と言ってもいい、努力するだけ無駄という気運が生じて全体を無力感が覆いがちだといいます。
やる気がある人もない人も、結果を出す人も出さない人も同じ報酬では全体の活気までなくなってくるのです。つまり平等の中に不平等感を持つことです。

しかしもりけんさんのいうオシムジャパンの共産主義は少し違うと思います。
突出したスターはいなくて、今のところ地味な個人ばかりですが、チーム全体として突出したサッカーチームになろうとしているのではないかと思います。
チーム全体をスターにするためには突出したスターは必要ないばかりか邪魔なのかもしれません。
スポットライトを浴びない人はますます隅に追いやられ花形選手ばかりが脚光を浴びるだけではチームとして良い成績が残せません。
チーム全体が花形になるためには個は突出することなく、共産主義的に一人ひとりが駒に徹して、そのくせ、各選手がそこに誰もいなくても球を蹴りだすことが出来るようなツーカー状態で、なおかつ全力で疾走できるような状態、そんな無意識の世界ともつながったような試合が出来ればオシムジャパンは突出した成績を残せるに違いありません。

現実の共産主義と違うところは、選手たちは駒としての対等感は持っても不平等感を感じてる暇などないところなのではないかと思います。
  • 2006/09/18-10:35:35
  • 投稿者 : 空タネ
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[C4194] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

タイトル=もりけんさんの視点にビックリしました!
ykさん勉強になります、ありがとうございます♪
父が赤旗新聞を取っていたのですが、どんな思いがあったろう・・と亡くなった後、母に尋ねると、「ああ、あれは同級生の○○さんから頼まれたからよ」とそれだけでした・・チャンチャン!
肉体の共産主義が不可能だったのではないかと思いました。
人は求め合い反発しあう生き物なので、横並びし同一化された人間ばっかりの社会では、退屈&無感動、喜びを見いだすことは難しそうです。
自己表現のためにも、友や恋を求めるにも、何より個性を必要とする気がします。
それには、できるだけ何かを身にまとうことが必要となり、物質的豊かさを欲するようになるのではと思います。
一方、精神の共産主義、平等というのは、もしかしたら人は皆、心の奥底で求めていることかも知れないと思います。
もりけんさんが常々言われる対等、水平とはこのことかと思いますが、もりけんさんのサイトではどこの誰であろうと対等に参加可能です。
それはもう、最近上場したというSNSの話を聞いても関心持てないくらい、ここの刺激はものすごいと思います。
平穏よりも刺激の方が快感なのだとここで知った気さえします。
精神性の対等性を、誰もが望むことだとしたら、スポーツにおいてもそうだと思います。
スター選手とそうでない選手が、モロモロの条件差を比較されたり飲み込みながらプレイするのには、どこか重さがつきまとう気がしますが、、メンバーが皆、平等な精神性でつながったプレイというのは、余計な感情抜きならではの燃焼効率最大限という熱いプレイが限りなく続く気がしてきました・・
  • 2006/09/18-09:42:52
  • 投稿者 : ゆくえ
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[C4193] 共産主義サッカー

今まで、俊輔や中田の個人技にみとれ個人を追い掛けテマシタ。始めはこのHPでも個人的にもりけんさんを追い掛けてました。しかし、携帯でアクセス出来るに様なってからブログやHPに名前を連ねる常連さんがたはもとより、みなさんの書き込みをロムするようになってきました。するとやめられない止まらないの状態です。まさに、全体です。この味をあじわうとおもしろくて今までにないHPのようです。私の視点が変わったかのようです。
  • 2006/09/18-09:39:24
  • 投稿者 : じんのり
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[C4192] 共産主義サッカーというものを

1時間考えているのですが、果たしてそういうものが成り立つか、私にはわかりませんでした。

俊輔のアシストのシーンをTVで見ました。本当に素晴らしいボールで、ひとりの素晴らしいパスを出すプレーヤーとしてという理由だけで、俊輔が起用されているということがよくわかりました。

俊輔自身も非常にリラックスしているようで全日本という重い看板を背負ってやるよりも、自分が駄目なら自分が消えりゃいいだけ、というようなさばさばしたものを感じました。

またU-17の北朝鮮戦の試合のダイジェストをTVで見たのですが、選手たちはまだ筋肉があまりないせいか、身が軽く動きがすばやく、ペナルティエリア内で蹴るチャンスを掴んだときも驚くほど落ち着いていたのが印象的でした。また、複数の選手が、相手ゴールを脅かすチャンスがあれば必ずシュートに結び付けて蹴るということを徹底してやっており、そうしなかったプレーを解説者は「(パスをださずに)自分で蹴ってもよかったと思います」と指摘していました。ミドルシュートも、外れたものが多かったのですが、何本も選手たちは果敢に打っていっていました。

正直言って、オール・ジャパンの試合より面白かったです。逆に、日本という看板を背負ったときに、選手たちは普段着のプレーが出来なくなってしまうものなのではないかと思いました。

オシムは若い選手を入れることで、自分たちが普段目指しているサッカーがどんなものか、選手たちに思い出させ刺激を与えているのかなと思いました。

ファンの立場からすれば、オシムのチームには、全日本の看板を過度に背負ってやってほしくありません。選手たちには、俺がスターに、ではなく、つけはどうせ全部俺にくるんだと思って(笑)のびのびやってくれればそれで満足だと思いました。
  • 2006/09/18-08:58:50
  • 投稿者 : ナイル
  • URL
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[C4191] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

前回大会の日本代表では、中田(英)選手や中村選手が中心のイメージがありました。なんといっても彼らは素人からみても上手です。

でも、前回の代表では選手のいない所に、中田選手が他の選手を信じて出したボールがただ誰もいないスペースを転がり、中田選手が天を仰ぐといったことが何度もありました。
また、テクニックのある中村選手の所にボールを預けすぎで、これが相手に読まれてしまい、逆にボールを奪われたり、出しどころが無く後手にまわるシーンも多かったような気がします。
こういうシーンは観ていても辛いものでした。

これらのことが起こるのは選手間の意識が対等でないからかもしれないと思いました。
これはサッカーを観戦する側もそうですが、どうしたって中田選手や中村選手に頼ってゲームを作るような雰囲気があった気がします。
例えこれが、小笠原選手や小野選手に代わっても同じような中心選手や創造性のある選手に頼るようなゲーム作りになっていたような気もします。
もちろん、そんなに単純じゃないと思いますが(汗)

中心を張る実力や創造性といった能力はピッチではあった方が有利になることもあると思います。
しかし、これは代替可能な駒として初めて有効なのかもしれないと思いました。
これが、テレビや雑誌で注目される選手がそれに応えようと中心で創造性を発揮しようと思っていたり(ゲーム中はそんなこと考えている暇なんて無いとは思いますが、例えば普段とか)、逆に注目される選手に他の選手や監督や観客が中心で創造性を発揮してもらおうと思っていたりしていたら、ゲームがちぐはぐなものになってしまうのかもしれません。

そういえば、新聞などで見たのですが、オシム監督のサッカーはスター選手を使わないから金にならないという不安の声も挙がってきています。
マスコミはスポンサーの味方なので、無理矢理にでもスター選手を作ったり、「スター選手を使わないオシムは間違っている!」みたいなネガティブキャンペーンをするかもしれません(汗)
前途多難かもしれませんが、オシム監督はそんな雑音無視してスターをそろえても作れないようなゲームが次々に生まれてくるような気がします。

[C4190] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

共産主義のベースになる唯物史観を考えてみますと、経済的構造が現実の土台であるということで、その上に法律、政治などは上部構造として乗って土台が上部構造を規定しているという考えなのですが、オシムのサッカーとしてとらえてみますと、サッカーの組織的構造が現実の土台として存在し、それは中心選手にボールを集めるようなものではなく、誰もが駒として代替可能であるという組織という土台の継続性からも経済的構造という最初にあるきものの構造というのが似てるように思いました。 
 法律・政治は、チームルールと戦略に置き換えてみるとわかりやすいと思います。組織的構造が戦略を規定しているサッカー、そしてチームという総体としての構造が主体となるサッカー、それが共産主義サッカーかなと思いました。それは、崩壊した共産圏の指導者のようにシステムを悪用するものがない限りしばらく続くような気がしました。
  • 2006/09/18-05:30:51
  • 投稿者 : yk
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[C4189]


政治には詳しくないので、イメージの部分もあるのですが・・
共産主義というと、百匹目のサル現象っぽいものを感じます。
大衆は横並び一線で、同じことを考え・・・でもその上にそれを操る人がいる・・というような。
そしてその上の一部だけが利益をこうむってるような・・。
でも、オシム監督のサッカーにそれは感じません。
実際、オシム監督がご主人様となり、選手を操っているかというと、ジェフの快進撃をうかがっても、そうではないと思います。
でも、やっぱりスターはいないし、スターになろうというものもいない・・
ここで、オシム監督もまた、スターになろうとしていないところも、私の中でのこれまでの共産主義のイメージとは違うと思いました。
オシム監督のやり方が理解されにくいのは、私たちや社会の中に、個人が自分の力を伸ばすこと、結果を出すことが大事で、そしてそれらを成し遂げたスターの存在が必要・・というようなな考えが、染み込んでいるからかもしれないと思いました。

[C4188] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

共産主義サッカーと資本主義サッカーというのは、今ひとつよくわかりませんが、オシム氏のサッカーは1人の(あるいは少数)の固定されたスター→全体のスター(個という視点で見れば、その時その時で入れ替わる、代表になれれば誰でもなる事が可能)にだと思います。どちらに夢があるかといえば私は後者だと思います。また、後者のほうが世界の強豪を相手に勝つ事も夢ではなくなるように思います.オシム氏のサッカーはファン層を変えていくかもしれないと思います。

[C4186] 共産主義サッカー

言えてる!
共産主義国でもフットボールは、資本を夢見させてくれるけどね。
幻想ではなく実利を生むには、これからの時代、発想の逆転がキーポイントなのかも。
  • 2006/09/18-04:05:38
  • 投稿者 : Rica
  • URL
  • 編集

[C4185] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

>かたやオシムのは、全体でスターになるというものです。
>「個」は抹消され、駒と化します。
>これは共産主義サッカーと言えないでしょうか?


全体でスターになる。。


個は抹消され、駒と化しますが、
逆説的ではありますが、
その状態において、個は、全体の中で、実力以上の力を発揮できるようになるのではないかと思いました。

爽快感・・
を、感じていることが、それを表していると思います。

「個」がスターとなるサッカーでは、
誰にとっても、スターになることが目標としてあると思います。
上位の存在がいれば、どうしても、そこに気がいってしまいます。
しかし、オシムのチームに、そんな存在はいないから、
どこにも気が散ることなく、プレーをすることができるのだと思いました。


考えて走る・・けれども、
余計なことを考えない・・

状態なのだと思いました。


 
  • 2006/09/18-02:38:56
  • 投稿者 : あかり
  • URL
  • 編集

[C4184]

DVD「究極のいい運命へ神とつながれ」以来、そう言う事かぁ~と、人のあるべき姿が判ったように思ったのです。あるいはボルボックスの様に一細胞としてその役割をになってこそ、生きていけると。人は全て、平等なのだと。横一線で無意識に意識を統一して事天国(理想の世界)がじつげんするのだと。・・・・・今はそんな所の理解でいます。武蔵野物語も面白かったのですが、オシム氏の見方も鋭いでね。一気に読んで島しました。
  • 2006/09/18-02:19:49
  • 投稿者 : sachi
  • URL
  • 編集

[C4182] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

 
共産主義サッカー。。。共に産むサッカー。。。
まさに駒が集まって機能して作り出すサッカーだと思いました。
 
でも「共産主義」と聞いて、今まで私が思い浮かべたのは、みんなが上から抑え
つけられて身動きが出来ない、我慢するというイメージでした。
 
でもオシムのサッカーは、同じ共産主義で、全員が駒だったとしても、押さえつ
けられて身動きが出来ないというイメージとは程遠いように思います。
 
むしろ走って走って、考えて考えて。。。全然押さえつけられていないと思いま
した。
 
今までの共産主義と違うのは、「みんなが同じならいい」のではなく、「みんな
が同じ立場で思いきり動いて、全体で大きな事を達成する」ということだと思い
ました。
 
  • 2006/09/18-01:51:24
  • 投稿者 : ぷく
  • URL
  • 編集

[C4181]

>「共産主義はやはりダメだ」と思われました。
 
そうそう、ダメだから廃れたのかと思ってました。資本主義のほうがなんか人の本質に沿ってていいのかなと思ってたのです……しかし、思ったのですが…いままでの共産主義というのは(以下詳しくないので想像)個の平等という事に対しては敏感だったような印象があります。(印象の話しですいません)しかし横一列なのに、平等という単語はどっか…もらう方として考えてると言うか。もしオシムのサッカーがそれと違うなら、このブログで考えてきた事には…「対等」というコトじゃないのかなと思います。ホントの横一線という事はどういうことなのか…ではないのかと思いました。そこに選手が涙した「快」があるのかなと思います。

[C4180] >共産主義サッカーと資本主義サッカー

・・難しくないなずの言葉に惑わされないように
しよう(汗)
そうか・・共産主義ってそうゆう事なのかと
思いました。
全体でスター・・でも上手くイカないと「ダメ」とゆう
ことになってしまうのか・・(それも人がそう考えるだけ
なのかもしれませんが)
私の今の暮らしは「個」の利益が確保されているように
感じます。正直言って、社会の事話せるレベル(・・笑)
ではありませんが・・
でもそう考えると、オシム監督のしようとしていることは
すごく困難な道なのかと思いました。
体制を変える・・をたったひとりで、流されずに行う
って出来るのだろうか・・
華のないスター達の活躍は・・スター選手も同じなの
ですが・・経済効果を考えると、スター選手を使った方が
たとえ、試合で負けたとしても・・利益に関しての損害は
少ないのかもしれません。
そうか・・「オシム監督のやり方は面白い」だけではないんだ
と思います。
でも、そんなオシム監督を選んだのも日本人です。




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