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[C1500] 「誰か知ろう」

生死をかけた戦いは相手の生死までも見つめていたのかと思いました。
ツバメを斬る小次郎の姿を見て暗くなったのは勝ちだけを見ていたものではなかったのかと思いました。いろんなことと繋がっていると思いました。
吉川英治も武蔵も深いなあと思いました。考えれば考えるほどその深さにわからなくなると思いました。

[C1492] >「誰か知ろう」

巌流島へ向かう武蔵の心境を描写し、底知れず深い水に目をやり最後にまた水の深さで終わる・・・。う~ん、なんてうまいんだ。。確かに途中で止められないと思いました。でもそう気づいたのは、もりけんさんが指摘してくださったからで、わたしにはそこまでの読解力は無いです。。。
水は黙って、何でも溶け込ますことが出来、力が弱いようで強く、不思議です。武蔵と小次郎の熱き決闘も、水の前では、その流れのように淡々と、まさに泡沫のように表現されてしまうのが、いやおう無く人間のちっぽけさを感じてしまいます。
  • 2006/05/20-21:33:31
  • 投稿者 : REI
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[C1490]

>水は生きている・・・
しかし一定の形を持たない。
一定の形に囚われているうちは、人間は無窮の生命は持ち得ない。

憎悪や愛執をずっと持ち続けていたら一定の形をつくってしまうのかもしれない。
それが自分にとって誇らしくて自慢したくなることでも
ずっとそれにしがみき離さずにいたらそれも一定の形
に囚われていることになる。
囚われたら自由でなくなる。

こだわってっている一定の形のなかで考え行動してきたことに気がついたけどそこから脱け出すことは難しい。




  • 2006/05/20-20:16:48
  • 投稿者 : 星
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[C1465] 「人間のレベル」

武蔵と小次郎は何故対決したのでしょうか?
立場や考え方の違いから、敵・味方に分かれるのは世の常です。
海は一つでも、あちらの波、こちらの波と乗っている波が違うようなものです。
「人間のレベル」を言うならば、同じ波に乗っている味方にも信頼できる人とできない人がいるように、敵にも同様に信頼できる人とできない人がいるものです。
乗っている波は違っても、海は繋がっています。
多分、これは人間としての共感です。
「人間のレベル」を説くなら、私は「あなたは、敵を信じられますか?」と聞きたいです。
他人と自分は、合わせ鏡のような関係です。
だから、この答えがその人の「人間のレベル」だと思うからです。

船井さんと森田さんは、船井オープンワールド以来、直接会ったことがありません。
「会って話を聞いても、獲って食われる訳でもあるまいし。」と思うのですが。

[C1449] もりけんさんの「勝手にしやがれ」みたいだ・・

なんと深いところでとめてあるんでしょう。かなり、余韻が残りそうです。
つい、この時はこういう対処のほうがとか、具体的な処方箋がほしい私にこの深さがわかったかどうか自信がないですが。

たしかに、人の心や人がなにを考え、なにに対して心がうごいてるなんて、だれもわからないです。
武蔵ってかっこよかったんですね。

>心は、生死を離脱したつもりでも、肉体は、予感する。筋肉が締まる。ふたつが合致しない。

何回も試合をしていて、頭での生死がわかっていても緊張する。普通の人間なんだよといわれてるようです。そして、とどめをささず、ほっとした様子も魅力的だと思いました。

[C1441] >誰か知ろう

最新の武蔵は観ていませんが、高校生の時、役所 こうじの武蔵は、毎週、欠かさず観ていました。
その最終回の船の上のシーンで、誰か知ろうのナレーションが流れました。
確か、武蔵が船頭を気遣い、変わりに船を漕いでいた様に思います。
とっても、好きなシーンで、録画していた事もあって、繰り返し観た覚えがあります。 最後の最後に、結論づけをせず、武蔵の心は誰にもわからないとした吉川氏は、生前、我以外 皆 師 という様なニュアンスの言葉を座右の銘にしていたそうです。
こじつけになるかもしれませんが、吉川氏は、我以外、いわゆる外側を重要視し、ネットワーク化していたのかもしれないと思いました。
だからこそ、自分自身で、結論づけをしなかった、出来なかったのではないかと思います。

[C1424] うん、うん、そうだよね

>百尺下の水の心を、水のふかさを

そう思いました、確かにそうですね。
そして世間を見回せば、何も知らないちっぽけな自分の存在。他の人も似たようなもの、、、ソクラテスの「無知の知」を思い出しました。そしてそこからどう歩き出すかが重要かなぁ・・・と。
  • 2006/05/19-10:46:34
  • 投稿者 : siorin3962
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[C1421] 知らないことを共有する

知らないことを共有するのは、すごいことだと思いました。
・・・水平、対等。

知っていることを教える。というのが今までの常だったのではないか・・と思いました。

知らないということを、共有する・・・・・。
高みから下に向かって「教える」のとは全く違います・・


間口が、、というか、
うまくいえないのですが。
とにかく「知らないこと」を「共有」するというのにとてもひっかかりました。

ものすごく広がりがあるような、、そしてスピードもあるいような・・
なんだか同じことばかり感じて(思って)いるような気がしますが・・(汗)

[C1419] 吉川英治すら、本当の武蔵を知ってはいない・・と書いているようなものです。

>波騒は世の常である。
 波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。
 
 「運命」は決まっています。
 
 その事を十分理解しているのに、今も私は、「悩んでいます」。
 
 右に行こうか、左に行こうか、それとも …。
 
 「時の流れに身を任せ」が、脳裏に浮かんできました。

[C1418] もりけんさんは船井さんにとって

「えさ場」のひとつだったのかなあと思います。

あきらかにもりけんさんのところからもってきたと思われる部分が散見される(それもハンパな形で)ということを知って、イヤになりました。

どこの世界でもそうですが、自分で労力を使って何かするよりも、人のものをとってくるほうがカンタンです。

狭い世界の中で近親相姦的にお互いに交わりを繰り返しているようで、気持ち悪いです。あ、お互いにではなくて一方的にでも、です。

もりけんさんがあれだけ怒っているのだから、船井さんには相当許せない何かがあったのではないかと思います。
  • 2006/05/19-06:48:32
  • 投稿者 : ナイル
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[C1417] >誰が知ろう

読み終えたあと、深い海の底に、沈んでいくような感触を覚えました・・


誰が知ろう・・


まだ、誰も知らぬであろう
深い海の底の底まで沈んでいきたくなりました。。。


そして、海底のようすを知りたいと・・


[C1416] 誰が知ろう

自分のこともわからないのにましてや相手の本当の所なんて最後までわからないのかも知れません。波騒は世の常・・あぁ本当にそうだなと思います。表面だけをみて言いたい放題なのが常だと思います。百尺下の水のこころ、水のふかさ・・吉川栄治の表現のふかさに心を打たれました。
  • 2006/05/19-03:58:32
  • 投稿者 : Ciel
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[C1415] 誰も知らない

 水の深さも水の心も誰も知らない、けど、知りたい、わからない、でも誰が知ろう、だからどうにか知ろうとする意志表示というのが必要だという気にさせてくれる、文面だと感じました。
  • 2006/05/19-02:35:16
  • 投稿者 : yk
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[C1414] 余韻

>波騒は世の常である。
>波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。

ページを開いたままじっと思いをめぐらすことが出来る本のいいところだと思いました。
吉川英治が自分で武蔵の生き様を結論付けてしまうとそれは答えとなり定義されてしまうことなのだと思いました。


作者が百匹目の猿の先頭に立っていたらこの本は長きにわたって読まれる名作にはなっていなかっただろうと思います。

[C1413] 深淵

水は無意識の象徴です。その人個人の無意識の反映なのか集合的無意識に通じているのかわかりません。しかしびっくりするほどエレガントな描写です。小次郎の意識が死んで集合的無意識とひとつになるということを示しているのかもしれません。

しかし水に映った「無意識」の中に他者というか、何か「もののけ」を感じるのは私だけでしょうか...。

何かそこに時空の意思のようなものの存在が感じられるときががあります。海というのは時空の「目」なのかもしれません。「被視感」を感じるときがあります。

昔から大きな水の傍ではへんなことが起こりがちです。海などの傍では時空や無意識と意識がつながりやすくなるという仮説が思い浮かびました。だから、人は普段やらないような、自分では絶対にしないというような極端な行動をしてしまう危険も大きくなります。また何か他者から操作されやすくなるような気がします。とにかくバラツキを普段の環境よりも上昇させるような気がします。

そのちょっとへんなことが起きることや、偏よりが起きることをスマイルと呼んでもよいような気がします。そしてスマイルと呼ぶのはそこに時空の意思があるようで、つまり、時空のいたずらっぽいスマイルのようでとてもぴったりの呼び方だと思います。

私は自然のもつエレガントさに興味があります。

「環境」が武蔵に味方をしたのであったならば、武蔵は小次郎よりも時空とつながっていた度合いが大きかったことが、勝敗を分けた大きな原因だったのかもしれません。

そして小次郎の意識は光と潮風の中に解けていったのかもしれません。そこには「死」が確かに存在したのですが、微笑もあったように感じられます。
  • 2006/05/18-23:39:11
  • 投稿者 : ナイル
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[C1411] 「誰が知ろう」

 
 8巻でこの物語は最後ということで、武蔵がサッサッと舟に乗って帰ってしまう所で終ってしまうのか!と思いました。
 
 戦いの前、武蔵は海面の様子、またその深さを見て、考え込んでしまいますが、戦いが終ったのち、やはり、「誰が知ろう」となります。
 武蔵自信もまだ、まだ、「知らない」状態が続くのだと思いました。
 武蔵は自分がなぜ、剣をやっているのか、一生考え続けるのではないかと思いました。

[C1410]

自分の心さえよくわかりません。
だから他人にあなたはこうだと言われるとそうかもしれないと思ってしまいます。
批判されるとつかみ所が無い心では定義ができません。
どんな場合も批判がされるし自分もするだろう。
誰か知ろうか。
私は何も本当のことは知っていない。
 
武蔵が止めを刺さないで行ってしまうことは。。。
ずいぶん前に読んだのでほとんど忘れています。
作者の結論を読むケースは多いですが、これはもう一度読んでみたいと思います。

[C1409] >「誰か知ろう」

知らないことを認識するために、書き上げる小説はほとんどないのではないかと思いました。
最後の締めくくりは確かにうなるものがありました。
今回ビビっと来たのは、「知らない」を肯定することだと思いました。
著者の心の中にも「私は誰?」が染み付いているのかと感じました。

[C1408] 鳥肌・・

たちました。
波に任せて、泳ぎ上手にはなりたくない・・。
百尺下の水の心、水の深さを・・
感じ取れる人間でありたいと思う・・。

いや~、吉川英治・・スゴイ人です。
  • 2006/05/18-15:47:25
  • 投稿者 : まる
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[C1406] 結局、「誰か知ろう」・・・

八巻といえば、かなり長編です。ひとりの主人公であったら、そのひとろなりや、何か結論にたどり着いてもよさそうですが、最後にこんなキーワードが入っているなんて、意外でした。
もっと吉川さんには、もっと「武蔵」像をはっきり作り上げよう!というような意志があるものだと、勝手に思い込んでいたからです。

それから、誰かの人物像や伝説なんて、誰か自身が語って宣言して作っているんじゃなく、結局「他人」が作り上げているに過ぎないんだなと、思いました。

終わりの終わりで、「わからない」が来ることに、なんか、顆粒が水に溶けて消えていってしまうような印象を受けました。

[C1405]

 父の祖父母ぐらいは話からイメージできますが、その前となると全然分からないものだなと思ったことがあります。100年も経たないうちにその人が存在したことは忘れられるものだなと思います。
 武蔵は四百年ほど前に存在した人だけれど、その人物像はほとんどわからないだろうなと思います。どんな意図をもって行動したなんか本人にでなければわからないだろうし。
 当時でさえその評価は分かれているのだから「誰か知ろう」は当然かなと思います。
 宮本武蔵の本は読んでいて面白いです。ようやく8巻目ですが。「誰かしろう」でもやはり最後まで速く読みたい気持ちです。

[C1404] >彼の行動を批判して、すぐこう言った。

武蔵は強いから、よく批判にさらされていたのだろうなあと思います。ドラマでも小次郎より前の決闘で、いっぱい批判を受けていて、小次郎との戦いで、その批判にも止めが打たれるかと思いきや、なにしても批判はされる。ラスト付近で、武蔵に偏らないで、批判を入れたってところがすごいです。リアルです。
そこで、ムッとして、なに言ってるんだよ~!と思うとこからまた一転して、「けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。」って〆るとこが、グッときます。
いつも人が見ているのは、表面だけのことで、ほんとのことは、誰にもわからないんだって、ためいきが出るような気持ちになります。
  • 2006/05/18-14:42:02
  • 投稿者 : リョウコ
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[C1402] 突き放して問いがはじまる

この行だけ読んでも、じーっと見てしまいます。
そして実際に本を読んだとしても、その事で頭の中がいっぱいになり、別のことがすぐにはできません。

別のことができたとしても、そのことを考えながらこなしているでしょう。

話題になったり長く親しまれる作品には余韻というか引っかかりが残るものが多いと思います。
そして、間接的な問いかけが潜んでいるような気がします。

吉川氏の最後は問いとは言いにくいですが、
「あんたら、後は自分らで考えて」
という突き放した一種冷たい感じです。
エヴァもそうでした。

今でも話題にされることは色あせないということであり、そこに何かが隠れているとどこかで感じるのかもしれません。

自分の中に問いがあると人間は全力で考えると思います。自覚あるなしに。

詐欺だ!とわめくより、ちくしょてめーと嫉妬したくなります・・・

[C1398] >けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。

最後がこの文章だったとは・・
普通の話だと、武蔵の後日談とか、回想とか・・そういうので終わりそうなものです。
この部分に目をつけ、最後をこの文章で締めくくった作者は、すごいと思いました。
売り出すためとか、武蔵を知ってもらおうとか、そういう意図で書いたのではないと思いました。
ずっと、武蔵とは・・と問いながら書き続け、結局わからなかったのかもしれない・・

これがさいごだと、確かに、本をとじれないと思います。
そして、自分なりの答えを見つけたくなり、またページをくって、読み返してしまいそうです。
でも・・きっと分からない。
誰にも分からない・・。

先にあった深い海の描写で、最後の部分がよりいっそうリアルに感じられます。

>けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。
何度もよんでしまいます。。
武蔵のことだけでなく、あらゆることに当てはまると思いました。

[C1397] 筋肉が締まる。ふたつが合致しない。

はい。。潜入感があり。。目隠し状態であれば。。体自由の毛穴は、意識無く、そそけ立っていた。に繋がるような気がします。。「・・おさらば」 さよならしないとさらに奥深くは繋がれないのかなああ。。でっすううう。。詐欺じゃなくて。。さあ~ぎいい~~と^^奥の扉をあけるのかなああでっすううう~~^^

 
  • 2006/05/18-12:40:24
  • 投稿者 : バニー
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[C1396] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • 2006/05/18-12:31:36
  • 投稿者 :
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[C1395] >「誰か知ろう」

 
剣の立ち合いは怨恨ではないんだから、なんでトドメを刺す必要があるんだよっ!
と思いました。
 
でも、
>吉川英治すら、本当の武蔵を知ってはいない・・と書いているようなものです。
 
武蔵でさえ、「誰か知ろう」だったかもしれません。
だって、自分のことなどわからないからです。
 
小次郎の息があることに一縷の光をみたのは確かでしょう。
でも、さっさと帰りの途についたのは、やっぱり追っ手が怖かったからかもしれません。
武蔵にさえ、自分の行動の真意などわからないだろうと思います。
ましてや他人はなおさらです。
 
だから、波に踊らされるのではなく、深い海の中に潜っていきたい、海の底がどうなっているのかを知りたいと思います。
 

[C1393] >誰か知ろう

>映像は止めることができません。しかも流し手の意図で流し続けるしかありません

閉じられる状態は、意図して先導されたことのように思います。相手の意図があって、意図は到達点として最終地点に着地する。本でも映像でも最後に着地点があると、自分の中で完結されます。「ああ、この物語はこういうことが言いたかったんだ・・・」と思って何だか安心してしまいます。

>知らないことを認識するために、八巻の本を読んだ・・

スタートしたけどゴールがなくって、だったらスタートに戻ったかというと浮遊して超不安定状態におかれた感じです。

もう一度「巌流島に向かうときの船の上から見た風景の描写」を読むと最初に読んだ印象と違いました。何がどう違うのかうまくとらえられていませんが、武蔵の試合に臨む心境が違って受け取れました。最後に読むと、武蔵の心の青い青い水の深さを感じました。

[C1392] 誰が知ろう

「わたし」を一言で、定義したい」そんな思いが、あります。
 それは、捉えようのない「自分」を何かでひきとめたい気持ちです。
 ひきとめたい、とゆうか「こうだ」と決めつけて欲しい、そんな
 気持ちがあります。
「武蔵」は何を求めていたのだろう。
「武蔵」の見つめていたものを、同じように見ることなど、できない。
 気持ちは、はみだします。でも、肉体はゆるしません(爆)
 今すぐにでもいきたい気持ち・・・あるのに、飛べない。
 形にとらわれなければ「何にだってなれるはず」なのに、
 何にもなれない。
 いつまでたっても、変わってない。
 そしてこんな「知りたい」気持ちの下には、百尺下の水の心のように
 得体の知れない気持ちがあるように思います。
 自分の気持ちすら、把握できてないなんて、
 「よい」も「わるい」もわからなくなる。
 誰が「私」をわかるだろう・・・武蔵自身、そんな思いを、
 持っていたのでしょうか。
 「私」はここにいるのに、その「私」ですら、私を定義できない。
 いつまでも、こんな風にワカラナイままなのでしょうか・・・。
 「武蔵」は、何か捉えたの? 聞いてみたい・・・。
 形にとらわれなくなったら、わかるのかな、見えるのかな。
 そう思いながら、どうしてこんな気持ちになるのかもワカリマセン。
 心と、肉体のように、人が「ひとつ」になるのはムリかもしれない
 そう思いました。わからないけれど、です。







[C1391] 小説だから、

著者は武蔵についていろいろ調べて、自分なりに考えたストーリーとして書いて
いるのだと思います。伝記として資料に忠実になって再現したわけではないと思
います。
 
だからストーリーの締めくくりでは、武蔵の強さや格好良さを強調しても良かっ
たし、武蔵の用意周到さを強調してもよかったのだと思います。一つの小説とし
て「武蔵はこんな男だった」と、キッチリと完結させることもできたのだと思い
ます。
 
でも、最後は著者自らが考え込んで、自分の書いたストーリーなのに感想を書い
ているように思えました。
 
著者は、小説を書き進めている間もずっと実在した武蔵のことを考え、武蔵の心
の動きを追い続けて、小説を完結させた時もまだ追い続けていたのかもしれない
と思いました。
 
でも武蔵の心を追いながら考えていたのは、人間のこと、人が生きていくという
ことだったのかなと思いました。
 
> 波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の
>水の心を、水のふかさを。
 
誰でも波の上の雑魚なのだと思います。
でも誰の下にも深い海があるのだと思います。
その海の中を覗こうとする瞬間はあるけれども、見えるのは暗くて何もなくて、
どこまでも広がっている世界で、雑魚は身震いしてまた波の上に戻るのだと思い
ました。

[C1390] >「誰か知ろう」

誰か知ろうってよくわかってなかったりするのですが。。心の奥深くまで誰がしることができるだろう。ってことかと思いました。
目の前にいる人すら、そういうことってあると思います。まして、時を経た人ならなおさらだと思います。事細かな描写に、目の前で起きているかのように、どうしたらこんな風にかけるのだろうと思いながらいつもよんでいました。

[C1389] 深くて深くて、はあぁ~っ・・・

武蔵は、自分の心身を極限状況に追い込み続けてきた結果、その存在を実感できる“何か”に気づいたのだと思います。
最強の敵と戦うのも、その“何か”に導かれ、その“何か”に応えることだと思えます。
巌流島に向かう船の中で感じた、「肉体と合致しない生死を離脱した心」とあるそれこそが、その“何か”だと思います。
生命は肉体と共に滅び終えるけれど、無窮の魂たるものが存在することを悟ったのかと思いました。
小次郎との決闘を「かりそめの試合」というくだりに、原作者吉川英治氏の思いも見て取れます。
八巻読み終えた読者は、小次郎との戦いさえかりそめであった武蔵を突き動かしてきたものは何かと思い巡らせるうちに、自分の奥底にも横たわり眠っているその“何か”が存在すること、じわじわと漠然とでも感じずにはいられないと思います。
私はもりけんさんのサイトに出会って、そういうことを感じられるようになったのですが、同時に驚いたのは、そういった心の深層を型にはめようとする動きが社会にあるということです。
アセンションなど茶番も用意されているようですが。
もりけんさんは、どんな相手にも、その魂が納得されるまで向き合われるのだと思います。
船井さんは、中途半端だとか尻切れトンボ、自分勝手な一方的で平気な方のようなので、配下の方ともうそつきごっこしてるんだナ、それで賢者だのって言うんだから面白いですねー☆

[C1388] けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを

きれいな表現だわ~。。うんと。。宇宙とシンクロしたときの私たちの体は、ほんとに。。。中は水だけになるのかなあでっすうう。。ああ。。涙とか。。汗とか。。おしっこで。。塩分がでてしまうので。。。汗汗。。。ごめんなさい。。。チョット。。。ムードこわしちゃいましたああ。。
  • 2006/05/18-11:01:59
  • 投稿者 : バニー
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[C1387]

>でも本は、読者が読みを止めることができます。
  
このラストの抜き書きを読んで。。虫ピンでとめられた蝶々みたいな気持ちになりました.きっちりキレイに文章に止められてしまったようです。動けません。
 
>と彼の生命に、一縷の光を認めたからである。と同時に、かりそめの試合が、この惜しむべき敵を、この世から消し去らずに済んだかと、心もかろく覚えたからであった。
 
>波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。
 
鳥肌が立ちましたし泣きました。
武蔵に取っては「かりそめの試合」だったのだと。けっこうマジ泣きです。感想を書くのが難しい。読んでて体が痛いからです。血管がキュ~ッとなるのです。(恋といっしょ)
私はこの八巻をかってずっと読むだろう。。と思いました。
ここまでキュ~ッとおもった本は。。この人生を思い返しても。。思い当たるのはあと1、2冊ぐらいです。このさき。。武蔵とか佐助とか。。吉川英治さんとと時間を過ごしてしまうだろう。めっちゃ文系なので。。心をつかまれるともうダメです。ずっとそこにいる事になる。私には感想しか書けません。。こういう時。。もう一人で閉じてても。。いいやと思います。かなりウエットな人間だと思いますが。。それでいいやと思う瞬間です。。でないと味わえないものもあるから。

[C1386] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • 2006/05/18-10:54:28
  • 投稿者 :
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[C1385]

生き方を求めると、そこには「学び」「学ぶぞ!」「学べ!」
が生まれてきそうな気がします。
武蔵は何も学ばない。学べばそれが邪魔になる。
すべてにおいて邪魔になる。
第一、学びが何になる・・という感じです。

いささか退屈を覚えてさえ、学びに走らない(?)
退屈というものを知らずに生活していたのは、学びなどから
かけ離れていたからだと思います。
だから武蔵は気づけばそんな武蔵になっていた。
小次郎はちやほやの最初から小次郎となっていた。
学んだことを生かしこそして、長い太刀を作ったり、ツバメを
切る修行をした。
小次郎が勝っていたら、時間に遅れるなとか、礼儀正しくとか
学びの本として某Fメディアから出版されたかもしれません(笑)
そして私の本棚にもしっかり並んでいたかも(苦笑)

武蔵ももりけんさんも何も「学ぼう」としていないようです。
・・・というより
「何を学ぶの?」とか言われそうです。
六こう占術さえ学んでいないのはHPのメインを読めばわかります。
五行がもりけんさんによって斬られたとき、六こう占術のほうが
「ああ、そうだたの?」と学びそうです(笑)

[C1383] 私は雑魚です

が、それが何か?(爆)。
雑魚でも大物のことを考えることはできそうです。
雑魚の頭の中は物欲と「個」の上位の悩みで、それをなんとか解決したい
という思いで一杯です。
これが運命通りなのだとしたら、運を良くする方法とは、
ある病原菌を投薬やメスで除去するといった西洋医学のような対処療法では
ないことがわかってきました。
自分以外の大物である武蔵や神やもりけんさんや船井さんのことを考える
ことで「個」の問題を間接的にしたいのです。

[C1382]

「わたし」の目で見たものは「わたし」でなければ100%理解する事はむずかしい・・・・

べつの魂が「わたし」のなかに入りこまないとべつの魂が「わたし」を知る事はできないと思う。
どんなに言葉を駆使しても・・・・・そんな気がする。


武蔵だって自分の心の流れをいつも冷静に眺める事ばかりできたわけじゃないと思うし・・・・・

>けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを

これだよね・・・・・やっぱし。。。(なにが)

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「誰か知ろう」

 まず、巌流島に向かうときの船の上から見た風景の描写をもう一度載せます。
 
*************************
 
 彼(武蔵)はかつて、退屈というものを知らずに生活してきたが、この日、船の中では、いささか退屈を覚えた。
 櫂(かい)も削ったし、タスキのためのコヨリもよれたし・・そして考える何事も持たない。
 ふと。
 船縁から真っ青な海水の流紋に眼を落としてみる。
 深い・・底知れず深い・・。
 水は生きている。無窮の生命を持っているかのようである。しかし一定の形を持たない。一定の形に囚われているうちは、人間は無窮の生命は持ち得ない。
 眼前の死も生も、そうした眼には、泡沫に似ていた。
 ・・・が、そういう超然らしい考えがふと頭をかすめるだけでも、体自由の毛穴は、意識無く、そそけ立っていた。
 それはときどき、冷たい波しぶきに吹かれるからではない。
 心は、生死を離脱したつもりでも、肉体は、予感する。筋肉が締まる。ふたつが合致しない。
 
***************************
 
 そして次は、いよいよ本の最後の部分です。
 
******************
 
 武蔵は十歩ほど歩いた。
 小次郎のそばに膝を折った。
 左の手で小次郎の鼻息をそっと触れてみた。微かな呼吸がまだあった。武蔵はふと眉を開いた。
「手当によっては」
 と彼の生命に、一縷の光を認めたからである。と同時に、かりそめの試合が、この惜しむべき敵を、この世から消し去らずに済んだかと、心もかろく覚えたからであった。
「・・おさらば」
 そこから手をついて、一礼すると武蔵の姿は、一滴の血もついていない櫂の木太刀を提げたまま、さっと北磯のほうへ走り、そこに待っていた小舟の中へ飛び乗ってしまった。
 
 中略
 
 生ける間は、人間からの憎悪や愛執は除けない。
 時は経ても、感情の波長は次々にうねっていく。武蔵が生きている間は、なお快しといない人々が、との折りの彼の行動を批判して、すぐこう言った。
「あの折りは、帰りの逃げ途も怖いし、武蔵にせよ、だいぶ狼狽しておったさ。何となれば、巌流にトドメを刺すのを忘れて行ったのを見てもわかるではないか」・・と。
 波騒は世の常である。
 波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。
 
*******************
 
 うーん、さすがにうまいです。
 吉川英治、最後はNHKを斬りました(爆)。
 
 映像は止めることができません。しかも流し手の意図で流し続けるしかありません。
 でも本は、読者が読みを止めることができます。
 
 小説の最後で読者が読みを止めるというのは、非常に珍しいです。
 つまり、すぐに本を閉じることができない状態です。
 
 ここに「これからは武蔵のように生きよう。武蔵の生き方を世の中に広めよう」などと書いてあっら、すぐに閉じられます(笑)。
 
 第八巻まで読み切って、最後は「誰が知ろう」です。
 吉川英治すら、本当の武蔵を知ってはいない・・と書いているようなものです。
 
 知らないことを認識するために、八巻の本を読んだ・・
 
 詐欺だという人は、誰もいないでしょう・・。
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38件のコメント

[C1500] 「誰か知ろう」

生死をかけた戦いは相手の生死までも見つめていたのかと思いました。
ツバメを斬る小次郎の姿を見て暗くなったのは勝ちだけを見ていたものではなかったのかと思いました。いろんなことと繋がっていると思いました。
吉川英治も武蔵も深いなあと思いました。考えれば考えるほどその深さにわからなくなると思いました。

[C1492] >「誰か知ろう」

巌流島へ向かう武蔵の心境を描写し、底知れず深い水に目をやり最後にまた水の深さで終わる・・・。う~ん、なんてうまいんだ。。確かに途中で止められないと思いました。でもそう気づいたのは、もりけんさんが指摘してくださったからで、わたしにはそこまでの読解力は無いです。。。
水は黙って、何でも溶け込ますことが出来、力が弱いようで強く、不思議です。武蔵と小次郎の熱き決闘も、水の前では、その流れのように淡々と、まさに泡沫のように表現されてしまうのが、いやおう無く人間のちっぽけさを感じてしまいます。
  • 2006/05/20-21:33:31
  • 投稿者 : REI
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[C1490]

>水は生きている・・・
しかし一定の形を持たない。
一定の形に囚われているうちは、人間は無窮の生命は持ち得ない。

憎悪や愛執をずっと持ち続けていたら一定の形をつくってしまうのかもしれない。
それが自分にとって誇らしくて自慢したくなることでも
ずっとそれにしがみき離さずにいたらそれも一定の形
に囚われていることになる。
囚われたら自由でなくなる。

こだわってっている一定の形のなかで考え行動してきたことに気がついたけどそこから脱け出すことは難しい。




  • 2006/05/20-20:16:48
  • 投稿者 : 星
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[C1465] 「人間のレベル」

武蔵と小次郎は何故対決したのでしょうか?
立場や考え方の違いから、敵・味方に分かれるのは世の常です。
海は一つでも、あちらの波、こちらの波と乗っている波が違うようなものです。
「人間のレベル」を言うならば、同じ波に乗っている味方にも信頼できる人とできない人がいるように、敵にも同様に信頼できる人とできない人がいるものです。
乗っている波は違っても、海は繋がっています。
多分、これは人間としての共感です。
「人間のレベル」を説くなら、私は「あなたは、敵を信じられますか?」と聞きたいです。
他人と自分は、合わせ鏡のような関係です。
だから、この答えがその人の「人間のレベル」だと思うからです。

船井さんと森田さんは、船井オープンワールド以来、直接会ったことがありません。
「会って話を聞いても、獲って食われる訳でもあるまいし。」と思うのですが。

[C1449] もりけんさんの「勝手にしやがれ」みたいだ・・

なんと深いところでとめてあるんでしょう。かなり、余韻が残りそうです。
つい、この時はこういう対処のほうがとか、具体的な処方箋がほしい私にこの深さがわかったかどうか自信がないですが。

たしかに、人の心や人がなにを考え、なにに対して心がうごいてるなんて、だれもわからないです。
武蔵ってかっこよかったんですね。

>心は、生死を離脱したつもりでも、肉体は、予感する。筋肉が締まる。ふたつが合致しない。

何回も試合をしていて、頭での生死がわかっていても緊張する。普通の人間なんだよといわれてるようです。そして、とどめをささず、ほっとした様子も魅力的だと思いました。

[C1441] >誰か知ろう

最新の武蔵は観ていませんが、高校生の時、役所 こうじの武蔵は、毎週、欠かさず観ていました。
その最終回の船の上のシーンで、誰か知ろうのナレーションが流れました。
確か、武蔵が船頭を気遣い、変わりに船を漕いでいた様に思います。
とっても、好きなシーンで、録画していた事もあって、繰り返し観た覚えがあります。 最後の最後に、結論づけをせず、武蔵の心は誰にもわからないとした吉川氏は、生前、我以外 皆 師 という様なニュアンスの言葉を座右の銘にしていたそうです。
こじつけになるかもしれませんが、吉川氏は、我以外、いわゆる外側を重要視し、ネットワーク化していたのかもしれないと思いました。
だからこそ、自分自身で、結論づけをしなかった、出来なかったのではないかと思います。

[C1424] うん、うん、そうだよね

>百尺下の水の心を、水のふかさを

そう思いました、確かにそうですね。
そして世間を見回せば、何も知らないちっぽけな自分の存在。他の人も似たようなもの、、、ソクラテスの「無知の知」を思い出しました。そしてそこからどう歩き出すかが重要かなぁ・・・と。
  • 2006/05/19-10:46:34
  • 投稿者 : siorin3962
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[C1421] 知らないことを共有する

知らないことを共有するのは、すごいことだと思いました。
・・・水平、対等。

知っていることを教える。というのが今までの常だったのではないか・・と思いました。

知らないということを、共有する・・・・・。
高みから下に向かって「教える」のとは全く違います・・


間口が、、というか、
うまくいえないのですが。
とにかく「知らないこと」を「共有」するというのにとてもひっかかりました。

ものすごく広がりがあるような、、そしてスピードもあるいような・・
なんだか同じことばかり感じて(思って)いるような気がしますが・・(汗)

[C1419] 吉川英治すら、本当の武蔵を知ってはいない・・と書いているようなものです。

>波騒は世の常である。
 波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。
 
 「運命」は決まっています。
 
 その事を十分理解しているのに、今も私は、「悩んでいます」。
 
 右に行こうか、左に行こうか、それとも …。
 
 「時の流れに身を任せ」が、脳裏に浮かんできました。

[C1418] もりけんさんは船井さんにとって

「えさ場」のひとつだったのかなあと思います。

あきらかにもりけんさんのところからもってきたと思われる部分が散見される(それもハンパな形で)ということを知って、イヤになりました。

どこの世界でもそうですが、自分で労力を使って何かするよりも、人のものをとってくるほうがカンタンです。

狭い世界の中で近親相姦的にお互いに交わりを繰り返しているようで、気持ち悪いです。あ、お互いにではなくて一方的にでも、です。

もりけんさんがあれだけ怒っているのだから、船井さんには相当許せない何かがあったのではないかと思います。
  • 2006/05/19-06:48:32
  • 投稿者 : ナイル
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[C1417] >誰が知ろう

読み終えたあと、深い海の底に、沈んでいくような感触を覚えました・・


誰が知ろう・・


まだ、誰も知らぬであろう
深い海の底の底まで沈んでいきたくなりました。。。


そして、海底のようすを知りたいと・・


[C1416] 誰が知ろう

自分のこともわからないのにましてや相手の本当の所なんて最後までわからないのかも知れません。波騒は世の常・・あぁ本当にそうだなと思います。表面だけをみて言いたい放題なのが常だと思います。百尺下の水のこころ、水のふかさ・・吉川栄治の表現のふかさに心を打たれました。
  • 2006/05/19-03:58:32
  • 投稿者 : Ciel
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[C1415] 誰も知らない

 水の深さも水の心も誰も知らない、けど、知りたい、わからない、でも誰が知ろう、だからどうにか知ろうとする意志表示というのが必要だという気にさせてくれる、文面だと感じました。
  • 2006/05/19-02:35:16
  • 投稿者 : yk
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[C1414] 余韻

>波騒は世の常である。
>波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。

ページを開いたままじっと思いをめぐらすことが出来る本のいいところだと思いました。
吉川英治が自分で武蔵の生き様を結論付けてしまうとそれは答えとなり定義されてしまうことなのだと思いました。


作者が百匹目の猿の先頭に立っていたらこの本は長きにわたって読まれる名作にはなっていなかっただろうと思います。

[C1413] 深淵

水は無意識の象徴です。その人個人の無意識の反映なのか集合的無意識に通じているのかわかりません。しかしびっくりするほどエレガントな描写です。小次郎の意識が死んで集合的無意識とひとつになるということを示しているのかもしれません。

しかし水に映った「無意識」の中に他者というか、何か「もののけ」を感じるのは私だけでしょうか...。

何かそこに時空の意思のようなものの存在が感じられるときががあります。海というのは時空の「目」なのかもしれません。「被視感」を感じるときがあります。

昔から大きな水の傍ではへんなことが起こりがちです。海などの傍では時空や無意識と意識がつながりやすくなるという仮説が思い浮かびました。だから、人は普段やらないような、自分では絶対にしないというような極端な行動をしてしまう危険も大きくなります。また何か他者から操作されやすくなるような気がします。とにかくバラツキを普段の環境よりも上昇させるような気がします。

そのちょっとへんなことが起きることや、偏よりが起きることをスマイルと呼んでもよいような気がします。そしてスマイルと呼ぶのはそこに時空の意思があるようで、つまり、時空のいたずらっぽいスマイルのようでとてもぴったりの呼び方だと思います。

私は自然のもつエレガントさに興味があります。

「環境」が武蔵に味方をしたのであったならば、武蔵は小次郎よりも時空とつながっていた度合いが大きかったことが、勝敗を分けた大きな原因だったのかもしれません。

そして小次郎の意識は光と潮風の中に解けていったのかもしれません。そこには「死」が確かに存在したのですが、微笑もあったように感じられます。
  • 2006/05/18-23:39:11
  • 投稿者 : ナイル
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[C1411] 「誰が知ろう」

 
 8巻でこの物語は最後ということで、武蔵がサッサッと舟に乗って帰ってしまう所で終ってしまうのか!と思いました。
 
 戦いの前、武蔵は海面の様子、またその深さを見て、考え込んでしまいますが、戦いが終ったのち、やはり、「誰が知ろう」となります。
 武蔵自信もまだ、まだ、「知らない」状態が続くのだと思いました。
 武蔵は自分がなぜ、剣をやっているのか、一生考え続けるのではないかと思いました。

[C1410]

自分の心さえよくわかりません。
だから他人にあなたはこうだと言われるとそうかもしれないと思ってしまいます。
批判されるとつかみ所が無い心では定義ができません。
どんな場合も批判がされるし自分もするだろう。
誰か知ろうか。
私は何も本当のことは知っていない。
 
武蔵が止めを刺さないで行ってしまうことは。。。
ずいぶん前に読んだのでほとんど忘れています。
作者の結論を読むケースは多いですが、これはもう一度読んでみたいと思います。

[C1409] >「誰か知ろう」

知らないことを認識するために、書き上げる小説はほとんどないのではないかと思いました。
最後の締めくくりは確かにうなるものがありました。
今回ビビっと来たのは、「知らない」を肯定することだと思いました。
著者の心の中にも「私は誰?」が染み付いているのかと感じました。

[C1408] 鳥肌・・

たちました。
波に任せて、泳ぎ上手にはなりたくない・・。
百尺下の水の心、水の深さを・・
感じ取れる人間でありたいと思う・・。

いや~、吉川英治・・スゴイ人です。
  • 2006/05/18-15:47:25
  • 投稿者 : まる
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[C1406] 結局、「誰か知ろう」・・・

八巻といえば、かなり長編です。ひとりの主人公であったら、そのひとろなりや、何か結論にたどり着いてもよさそうですが、最後にこんなキーワードが入っているなんて、意外でした。
もっと吉川さんには、もっと「武蔵」像をはっきり作り上げよう!というような意志があるものだと、勝手に思い込んでいたからです。

それから、誰かの人物像や伝説なんて、誰か自身が語って宣言して作っているんじゃなく、結局「他人」が作り上げているに過ぎないんだなと、思いました。

終わりの終わりで、「わからない」が来ることに、なんか、顆粒が水に溶けて消えていってしまうような印象を受けました。

[C1405]

 父の祖父母ぐらいは話からイメージできますが、その前となると全然分からないものだなと思ったことがあります。100年も経たないうちにその人が存在したことは忘れられるものだなと思います。
 武蔵は四百年ほど前に存在した人だけれど、その人物像はほとんどわからないだろうなと思います。どんな意図をもって行動したなんか本人にでなければわからないだろうし。
 当時でさえその評価は分かれているのだから「誰か知ろう」は当然かなと思います。
 宮本武蔵の本は読んでいて面白いです。ようやく8巻目ですが。「誰かしろう」でもやはり最後まで速く読みたい気持ちです。

[C1404] >彼の行動を批判して、すぐこう言った。

武蔵は強いから、よく批判にさらされていたのだろうなあと思います。ドラマでも小次郎より前の決闘で、いっぱい批判を受けていて、小次郎との戦いで、その批判にも止めが打たれるかと思いきや、なにしても批判はされる。ラスト付近で、武蔵に偏らないで、批判を入れたってところがすごいです。リアルです。
そこで、ムッとして、なに言ってるんだよ~!と思うとこからまた一転して、「けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。」って〆るとこが、グッときます。
いつも人が見ているのは、表面だけのことで、ほんとのことは、誰にもわからないんだって、ためいきが出るような気持ちになります。
  • 2006/05/18-14:42:02
  • 投稿者 : リョウコ
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[C1402] 突き放して問いがはじまる

この行だけ読んでも、じーっと見てしまいます。
そして実際に本を読んだとしても、その事で頭の中がいっぱいになり、別のことがすぐにはできません。

別のことができたとしても、そのことを考えながらこなしているでしょう。

話題になったり長く親しまれる作品には余韻というか引っかかりが残るものが多いと思います。
そして、間接的な問いかけが潜んでいるような気がします。

吉川氏の最後は問いとは言いにくいですが、
「あんたら、後は自分らで考えて」
という突き放した一種冷たい感じです。
エヴァもそうでした。

今でも話題にされることは色あせないということであり、そこに何かが隠れているとどこかで感じるのかもしれません。

自分の中に問いがあると人間は全力で考えると思います。自覚あるなしに。

詐欺だ!とわめくより、ちくしょてめーと嫉妬したくなります・・・

[C1398] >けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。

最後がこの文章だったとは・・
普通の話だと、武蔵の後日談とか、回想とか・・そういうので終わりそうなものです。
この部分に目をつけ、最後をこの文章で締めくくった作者は、すごいと思いました。
売り出すためとか、武蔵を知ってもらおうとか、そういう意図で書いたのではないと思いました。
ずっと、武蔵とは・・と問いながら書き続け、結局わからなかったのかもしれない・・

これがさいごだと、確かに、本をとじれないと思います。
そして、自分なりの答えを見つけたくなり、またページをくって、読み返してしまいそうです。
でも・・きっと分からない。
誰にも分からない・・。

先にあった深い海の描写で、最後の部分がよりいっそうリアルに感じられます。

>けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。
何度もよんでしまいます。。
武蔵のことだけでなく、あらゆることに当てはまると思いました。

[C1397] 筋肉が締まる。ふたつが合致しない。

はい。。潜入感があり。。目隠し状態であれば。。体自由の毛穴は、意識無く、そそけ立っていた。に繋がるような気がします。。「・・おさらば」 さよならしないとさらに奥深くは繋がれないのかなああ。。でっすううう。。詐欺じゃなくて。。さあ~ぎいい~~と^^奥の扉をあけるのかなああでっすううう~~^^

 
  • 2006/05/18-12:40:24
  • 投稿者 : バニー
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[C1396] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • 2006/05/18-12:31:36
  • 投稿者 :
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[C1395] >「誰か知ろう」

 
剣の立ち合いは怨恨ではないんだから、なんでトドメを刺す必要があるんだよっ!
と思いました。
 
でも、
>吉川英治すら、本当の武蔵を知ってはいない・・と書いているようなものです。
 
武蔵でさえ、「誰か知ろう」だったかもしれません。
だって、自分のことなどわからないからです。
 
小次郎の息があることに一縷の光をみたのは確かでしょう。
でも、さっさと帰りの途についたのは、やっぱり追っ手が怖かったからかもしれません。
武蔵にさえ、自分の行動の真意などわからないだろうと思います。
ましてや他人はなおさらです。
 
だから、波に踊らされるのではなく、深い海の中に潜っていきたい、海の底がどうなっているのかを知りたいと思います。
 

[C1393] >誰か知ろう

>映像は止めることができません。しかも流し手の意図で流し続けるしかありません

閉じられる状態は、意図して先導されたことのように思います。相手の意図があって、意図は到達点として最終地点に着地する。本でも映像でも最後に着地点があると、自分の中で完結されます。「ああ、この物語はこういうことが言いたかったんだ・・・」と思って何だか安心してしまいます。

>知らないことを認識するために、八巻の本を読んだ・・

スタートしたけどゴールがなくって、だったらスタートに戻ったかというと浮遊して超不安定状態におかれた感じです。

もう一度「巌流島に向かうときの船の上から見た風景の描写」を読むと最初に読んだ印象と違いました。何がどう違うのかうまくとらえられていませんが、武蔵の試合に臨む心境が違って受け取れました。最後に読むと、武蔵の心の青い青い水の深さを感じました。

[C1392] 誰が知ろう

「わたし」を一言で、定義したい」そんな思いが、あります。
 それは、捉えようのない「自分」を何かでひきとめたい気持ちです。
 ひきとめたい、とゆうか「こうだ」と決めつけて欲しい、そんな
 気持ちがあります。
「武蔵」は何を求めていたのだろう。
「武蔵」の見つめていたものを、同じように見ることなど、できない。
 気持ちは、はみだします。でも、肉体はゆるしません(爆)
 今すぐにでもいきたい気持ち・・・あるのに、飛べない。
 形にとらわれなければ「何にだってなれるはず」なのに、
 何にもなれない。
 いつまでたっても、変わってない。
 そしてこんな「知りたい」気持ちの下には、百尺下の水の心のように
 得体の知れない気持ちがあるように思います。
 自分の気持ちすら、把握できてないなんて、
 「よい」も「わるい」もわからなくなる。
 誰が「私」をわかるだろう・・・武蔵自身、そんな思いを、
 持っていたのでしょうか。
 「私」はここにいるのに、その「私」ですら、私を定義できない。
 いつまでも、こんな風にワカラナイままなのでしょうか・・・。
 「武蔵」は、何か捉えたの? 聞いてみたい・・・。
 形にとらわれなくなったら、わかるのかな、見えるのかな。
 そう思いながら、どうしてこんな気持ちになるのかもワカリマセン。
 心と、肉体のように、人が「ひとつ」になるのはムリかもしれない
 そう思いました。わからないけれど、です。







[C1391] 小説だから、

著者は武蔵についていろいろ調べて、自分なりに考えたストーリーとして書いて
いるのだと思います。伝記として資料に忠実になって再現したわけではないと思
います。
 
だからストーリーの締めくくりでは、武蔵の強さや格好良さを強調しても良かっ
たし、武蔵の用意周到さを強調してもよかったのだと思います。一つの小説とし
て「武蔵はこんな男だった」と、キッチリと完結させることもできたのだと思い
ます。
 
でも、最後は著者自らが考え込んで、自分の書いたストーリーなのに感想を書い
ているように思えました。
 
著者は、小説を書き進めている間もずっと実在した武蔵のことを考え、武蔵の心
の動きを追い続けて、小説を完結させた時もまだ追い続けていたのかもしれない
と思いました。
 
でも武蔵の心を追いながら考えていたのは、人間のこと、人が生きていくという
ことだったのかなと思いました。
 
> 波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の
>水の心を、水のふかさを。
 
誰でも波の上の雑魚なのだと思います。
でも誰の下にも深い海があるのだと思います。
その海の中を覗こうとする瞬間はあるけれども、見えるのは暗くて何もなくて、
どこまでも広がっている世界で、雑魚は身震いしてまた波の上に戻るのだと思い
ました。

[C1390] >「誰か知ろう」

誰か知ろうってよくわかってなかったりするのですが。。心の奥深くまで誰がしることができるだろう。ってことかと思いました。
目の前にいる人すら、そういうことってあると思います。まして、時を経た人ならなおさらだと思います。事細かな描写に、目の前で起きているかのように、どうしたらこんな風にかけるのだろうと思いながらいつもよんでいました。

[C1389] 深くて深くて、はあぁ~っ・・・

武蔵は、自分の心身を極限状況に追い込み続けてきた結果、その存在を実感できる“何か”に気づいたのだと思います。
最強の敵と戦うのも、その“何か”に導かれ、その“何か”に応えることだと思えます。
巌流島に向かう船の中で感じた、「肉体と合致しない生死を離脱した心」とあるそれこそが、その“何か”だと思います。
生命は肉体と共に滅び終えるけれど、無窮の魂たるものが存在することを悟ったのかと思いました。
小次郎との決闘を「かりそめの試合」というくだりに、原作者吉川英治氏の思いも見て取れます。
八巻読み終えた読者は、小次郎との戦いさえかりそめであった武蔵を突き動かしてきたものは何かと思い巡らせるうちに、自分の奥底にも横たわり眠っているその“何か”が存在すること、じわじわと漠然とでも感じずにはいられないと思います。
私はもりけんさんのサイトに出会って、そういうことを感じられるようになったのですが、同時に驚いたのは、そういった心の深層を型にはめようとする動きが社会にあるということです。
アセンションなど茶番も用意されているようですが。
もりけんさんは、どんな相手にも、その魂が納得されるまで向き合われるのだと思います。
船井さんは、中途半端だとか尻切れトンボ、自分勝手な一方的で平気な方のようなので、配下の方ともうそつきごっこしてるんだナ、それで賢者だのって言うんだから面白いですねー☆

[C1388] けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを

きれいな表現だわ~。。うんと。。宇宙とシンクロしたときの私たちの体は、ほんとに。。。中は水だけになるのかなあでっすうう。。ああ。。涙とか。。汗とか。。おしっこで。。塩分がでてしまうので。。。汗汗。。。ごめんなさい。。。チョット。。。ムードこわしちゃいましたああ。。
  • 2006/05/18-11:01:59
  • 投稿者 : バニー
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[C1387]

>でも本は、読者が読みを止めることができます。
  
このラストの抜き書きを読んで。。虫ピンでとめられた蝶々みたいな気持ちになりました.きっちりキレイに文章に止められてしまったようです。動けません。
 
>と彼の生命に、一縷の光を認めたからである。と同時に、かりそめの試合が、この惜しむべき敵を、この世から消し去らずに済んだかと、心もかろく覚えたからであった。
 
>波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを。
 
鳥肌が立ちましたし泣きました。
武蔵に取っては「かりそめの試合」だったのだと。けっこうマジ泣きです。感想を書くのが難しい。読んでて体が痛いからです。血管がキュ~ッとなるのです。(恋といっしょ)
私はこの八巻をかってずっと読むだろう。。と思いました。
ここまでキュ~ッとおもった本は。。この人生を思い返しても。。思い当たるのはあと1、2冊ぐらいです。このさき。。武蔵とか佐助とか。。吉川英治さんとと時間を過ごしてしまうだろう。めっちゃ文系なので。。心をつかまれるともうダメです。ずっとそこにいる事になる。私には感想しか書けません。。こういう時。。もう一人で閉じてても。。いいやと思います。かなりウエットな人間だと思いますが。。それでいいやと思う瞬間です。。でないと味わえないものもあるから。

[C1386] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • 2006/05/18-10:54:28
  • 投稿者 :
  • 編集

[C1385]

生き方を求めると、そこには「学び」「学ぶぞ!」「学べ!」
が生まれてきそうな気がします。
武蔵は何も学ばない。学べばそれが邪魔になる。
すべてにおいて邪魔になる。
第一、学びが何になる・・という感じです。

いささか退屈を覚えてさえ、学びに走らない(?)
退屈というものを知らずに生活していたのは、学びなどから
かけ離れていたからだと思います。
だから武蔵は気づけばそんな武蔵になっていた。
小次郎はちやほやの最初から小次郎となっていた。
学んだことを生かしこそして、長い太刀を作ったり、ツバメを
切る修行をした。
小次郎が勝っていたら、時間に遅れるなとか、礼儀正しくとか
学びの本として某Fメディアから出版されたかもしれません(笑)
そして私の本棚にもしっかり並んでいたかも(苦笑)

武蔵ももりけんさんも何も「学ぼう」としていないようです。
・・・というより
「何を学ぶの?」とか言われそうです。
六こう占術さえ学んでいないのはHPのメインを読めばわかります。
五行がもりけんさんによって斬られたとき、六こう占術のほうが
「ああ、そうだたの?」と学びそうです(笑)

[C1383] 私は雑魚です

が、それが何か?(爆)。
雑魚でも大物のことを考えることはできそうです。
雑魚の頭の中は物欲と「個」の上位の悩みで、それをなんとか解決したい
という思いで一杯です。
これが運命通りなのだとしたら、運を良くする方法とは、
ある病原菌を投薬やメスで除去するといった西洋医学のような対処療法では
ないことがわかってきました。
自分以外の大物である武蔵や神やもりけんさんや船井さんのことを考える
ことで「個」の問題を間接的にしたいのです。

[C1382]

「わたし」の目で見たものは「わたし」でなければ100%理解する事はむずかしい・・・・

べつの魂が「わたし」のなかに入りこまないとべつの魂が「わたし」を知る事はできないと思う。
どんなに言葉を駆使しても・・・・・そんな気がする。


武蔵だって自分の心の流れをいつも冷静に眺める事ばかりできたわけじゃないと思うし・・・・・

>けれど誰か知ろう。百尺下の水の心を、水のふかさを

これだよね・・・・・やっぱし。。。(なにが)

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不思議なことに興味がある方、不思議なことを解明したい方、または新しい生き方を見つけたい方のためのものです。
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