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[C1940] >主観的というのは、「場」を取る力

「場」を取る力と書かれていたら、なにがなんでも主観的にものを見ようという気になりました。

>主観は、自分が環境を見る目です。
う~ん、この言葉は新鮮です。自分が環境を見る。つまり、周りを見るということですよね。
周りを見て、今自分がどの位置にいるのか・・って、これって客観的って教わったのでは・・また、わからなくなりました。(汗)

自分を知る。そして周りを見る。おのれの力量を知って、常識をこえた眼で周りを見渡すと、自分に味方してくれそううなものがみつかるということなのだろうか・・

なんか、「場」を取る力とは違う気がする。。。(汗)
こっちもメイン同様難しくなってきた気がします。

[C1786] 「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです

うお~~~っ
この解説が、なんか凄い・・・すごすぎる。。

「場」というのは、
もう・・とことん「私」と宇宙の繋がり方だけなんだなと・・・


問いは「私」のものではないと思います。

「問い」を主役として考えてみると、
問いは、個のネットワークを駆けめぐることで、さまざまな「場」を体験することができます。

この宇宙が神の脳みそだとすれば、
問いは、神の脳みそを駆けめぐる電気パルスです。

私たちは、皆それぞれ宇宙と独自のつながり方をしているのだとすれば、
問いが「個」を通過するたびに、神はひとつひとつ違った刺激を得られるのだと思います。

[C1779] >巌流島・・「場」の勝負

悩みに陥ったとき、自分を客観的に見る方がよい、と思ったことがあります。
一歩はなれて自分を見る・・
はまりこまない・・

でもそれでは結局視野が広がることにもならず、何の解決にもならないのでは、と今日の書き込みで思いました。

主観というのが、自分が環境をみる目、というのがとても、新鮮で驚きです。

一歩はなれようがなんだろうが、自分を見ることから視線をはずし、周りを見なければ、一緒なのかもしれません。

主観的に周りを見たとき・・そこには「自分が、自分が・・」というのはもうないと思います。
そういうときに、「場」が取れるのかなあと思いました。

[C1775] 「いる」ということ

主観的というのは「私がそこにいる」ということを自覚しているのだと思います。
客観的というのは「私はここにいてそこを見ている」というものだと思います。

主観的とは「立ち位置=感知する対象の中にいる」であり、
客観的とは「立ち位置=感知する対象の外側にいる」なのだと思いました。

常識などを疑わずに前提とするのも、感知する対象の外側から見ている状態なのだと思います。
昔流行った覗き部屋みたいです。

客観的にすればするほど、対象から実は離れていき、自分が場から離れていくのかもしれません。

[C1774] 派閥v.s一匹狼

会社組織が浮かびました。
小次郎も武蔵も新入社員だとして・・
小次郎は入社早々幹部に見いだされ、社長の派閥に組み込まれ、周囲の羨望の的となる・・
かたや武蔵はマイペースで型破りな仕事ぶりが、まわりの女子社員のハートをときめかせど、(ちゃちな)上司からは一向に認められない鼻つまみ者扱い・・
小次郎は派閥内じゃ一番下っ端なもんで、常にエラい人たちの顔色うかがってなきゃいけません。
仕事をこなす上でも、自分のやり方を通すより、気に入られるようやらねばならない苦痛も生じてきました。
武蔵は自由にのびのび仕事してるので、まわりも自然明るい雰囲気になっているのが(ちゃちな)上司にさえわかるようになってきました。
武蔵もどんどん発想が広がり、仕事そのものが楽しいとさえ思えるようになりました。
そこで社内スポーツ大会が催され・・・
日頃のうっぷんをぶつけたい小次郎が強いかなと思えるところ、実はイライラが過ぎて胃の調子が悪くって、本調子が出なくって・・
対して武蔵にゃ黄色い声援だけでなく、買ったら皆におごってやると(ちゃちな)上司が言ったもんだから、部署を上げて大盛況の応援です。
そして勝敗は・・・
派閥って、それごとコケたら出世もアウトどころか社内に居場所さえなくしそうで、やっかいそうです。
一匹狼がたくさん棲息できる職場がどうも良さそうデス。
で、派閥の一員だと小次郎は自分を客観的に見なしたと言え、武蔵は主観的に自分が動いたと言えるかなと思いました。

[C1768] >巌流島・・「場」の勝負

 主観で場を引き寄せる、場は主観によって切り取られる、とても私には思い言葉でありました。武蔵というより、全てに人にとっての最終兵器は研ぎ澄まされた主観であるのかと思いました。
  • 2006/05/30-03:18:39
  • 投稿者 : yk
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[C1767] 管理人のみ閲覧できます

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  • 2006/05/30-00:32:50
  • 投稿者 :
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[C1766] >巌流島・・「場」の勝負

>逆に客観は、環境の側から自分を見る目です

確かに。
一般的に客観的な意見などは環境の側、今の世間の流れの目で言われることが多いような気がします。
そしてその客観的な意見をいかにも主観のように勘違いしてしまう時があります。
感覚ってイリュージョンのうようです。
自分の感覚なんだか他人の感覚なんだか時々ごっちゃになります。

>主観的というのは、「場」を取る力だと思うからです。
>主観は、自分が環境を見る目です。

主観的ってすごく鋭いです。

[C1764] >巌流島・・「場」の勝負

>武蔵は主観的に徹することが出来たから、「場」を自分のものに出来たのです。
 
>小次郎は客観の世界にいたので、「場」を見方につけることが出来ませんでした。


主観的にものごとを見るということは、
自分のものさし(スケール)を持っているということだと思います。

そして、それは、発する問いによって、伸縮自在のような感じがします。

それは、自分の視点から環境を見るということであり、「場」を切り取ることだと思いました。

一方、客観的ということは、世間のスケールを使います。

そのスケールを使っていると、「個」は規格化され、いのちのような何かが失われてしまうのではないか・・と思いました。

主観的であることは、そのつど「場」をとり、
「場」とネットワークでつながる・・
ように思います。


[C1763] >主観的というのは、「場」を取る力

世の中にはいつも一番おいしいところをかっさらっていくように見える人がいます。武蔵ももりけんさんも、そのような人に見えます。

「場」をとるということも、このような幸運に恵まれるということも、事後的にそうであるのであって、物事が進行しているときには、うまくいっているかどうかということは、本人にはわからないのではないかと思います。また、卦にしても、後から検証してみてはじめて、「場」がとれていたかどうかということが確定するのだと思います。

「お金をもうけたい」とか「出世したい」とかいう目的を持っている場合、何をすればいいかははっきりしています。しかし、「場」をとるとか一番おいしい部分をかっさらうということで動いている場合には、何をすればよいかがはっきりしてはいません。何をすればよいかがはっきりしてはいないのに、止まっているわけにはいきません...。

そのようなときに必要になる羅針盤のようなものが「主観」ではないかと思います。これはうまくいっていそうな人のやり方をそのままもってきたりしてもうまくいかないと思います。また客観的な常識と相反するような場合もあるかもしれません。

羅針盤と書きましたが、ユングであれば曼荼羅だというかもしれません。行動の渦中にありながら、全体を知る力なのだと思います。

うまくいくかどうかわからないけれども必死にやっているとき、このような曼荼羅や「自己」というものを垣間見たような気がすることが誰にでもあると思います。

おそらくその瞬間、無意識や「場」とつながっているのだと思います。死の時点から過去を振り返ってみれば運命は詳細にいたるまで、全て決まっています。おそらく、その視点に立つ回路が開ける瞬間があるということなのかもしれません。

そう考えると、客観は太陽に目隠しをされて盲目 になった「昼」であり、主観は闇の中で感覚が鋭く無限に広がってより遠くまで見渡せるようになった「夜」ということになるのかもしれません。
  • 2006/05/29-20:38:13
  • 投稿者 : ナイル
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[C1762]  主観的というのは、「場」を取る力だと思うからです。

なんだか、腑に落ちました。
「私が原因」だと主観的にしろ、客観的にしろ、視線の方向は結局自分です。
ところが、「私は結果」だと視線の方向が外側に向いています。
つまり、>自分が環境を見る目です。 この視線を持っている人は少ないと思います。
>「場」を自分のものに出来たのです。

一見、客観性を保とうと、社会性とも言いますが「私は原因」の人から見ると、自分に視線が向いた主観的な奴、跳び蹴りを入れたいほどわがままな奴と自分が環境を見る目を持った主観的な人との区別がつき難いです。(爆)

でも、このブログやHPがおもしろいのは、「場」が取れているからなのだと思います。
ただで、「場」を取る秘訣を聞けました。(爆)

[C1761]

> Σ(゚Д゚)そう、そういえば!
 
so yeah 場!………(汗)
ブログが軟派な感じがしません。。スレッドテーマだけ軟派かも。。。今日は読んでもの凄い盛り上がりました。ココは心の中では「裏メイン」です。。
 
>主観は、自分が環境を見る目です。
>「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです
>主観的でないと、切り取り不能です。
 
はー…マイリマシタ。。もりけんさんには「場」がそう見えたのかと思って。。萌えました。いきなり「場」の話になるとは思わなかったです。
 
確かに主観以外で切り取りできません。
 
『宇宙の中で自分に関する運動方程式』というのは既に決まっていると思います。そしてその通りに「私」は動いていくのだと思います。その場合。。あたかも自分でモノゴトを決めたかのように。。動くのだと思います。そしてそれは運動方程式ですから。。自分の中を見つめてもソコにはありません。外との関係で。。しかしそれに乗せられていきます。。。
 
すると未来も知らない武蔵がなぜ「場」を掌握しきれたか。。
 
外を徹底的に見たことが功を奏したのだと思います。彼は外側が全てに呼び起こされた感覚をつぶさに見たのだと思います。。武蔵の運動方程式も決まっていたでしょう。。見えはしませんが。。もうどのブツと関係があるかまで決まっていて。。外を見ることでそこに感覚が引っかかり。。キチキチにタイトにシンクロしていったのではないかと思います。時空感度良好だったのではないかと思います。「感じたこと」や「思うこと」しか実行できないのを逆手にとって。。引っかかるブツで自分に関係する方程式を気づかずにあぶり出し。。さらにノイズ(希望的観測・客観性)を覗き。。タイトにあわせて「場」を掌握していったのではないかと思いました。(。。。矛盾だらけですが。。)
 
小次郎は。。客観的に判断していったから。。それがノイズとなり。。運命のままで。。時空を感じるまではいかなかったんじゃないかと思いました。 

「私」の運命の運動方程式に載るのは。。それに感応する「私」しかいないのだと思いました。
 

[C1760] 主観

相手の立場に立たなければ判断を誤るとよく言われそうかなと思い、
自分の感じて知りたいという気持ちをどこかに押さえ込んで無感覚になっていると思いました。
客観性は私が自分の感覚を見つけられないことになっていくように思います。
武蔵は自分の感覚でどうやって勝つかを考えてどんなものも見逃さない意気がありました。
自分の主観でしか一瞬の差は見えてこない。
だからこそいろいろなものを味方にできたよう思います。

  • 2006/05/29-20:17:30
  • 投稿者 : 小町
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[C1759] >主観的というのは、「場」を取る力

主観 = 電波(問い)を環境に向けて発信する側、
客観(環境) = 電波を受信して、反応(発動?)する側、と仮定してみました。

小次郎が環境に埋没していたとすれば、小次郎は電波を発信できなくて当然だと思います。
恐らく、小次郎は、自分がどうあるべきかにほとんど集中していたのでしょう。
ベクトルが、環境→自分への一方通行のようです。 自らは、電波の発信源にはなれなか
ったのかもしれません。

武蔵は、果敢に電波(問い?)を時空(=環境でしょうか?)に向けて発射したように思え
ます。 あたかも、空洞の自分からその周りに広がる時空へ問いかけるように・・・
もしそうならば、この場合のベクトルは、自分→環境といえるでしょうか?

(知ったかぶりで恥ずかしいのですが)六爻占術でコインを振るとき、具体的で明確な問い
を持ってコインを振らなければ、場を取るのが難しいといいます。 頭の中でAのこと考え
ながら、Bについてコインを振ったりするのも場が取れない原因のようです。
また、問いかける人の意識と無意識が一致していないと、強い電波が飛ばないのかもしれま
せん。 時空の側(環境の側)にも、無意識があるならば、無意識同士(?)で共振するこ
も考えられます。

いずれにせよ、武蔵はそのようにして場を取り、場そのものを味方にしてしまったのでしょ
うか? その結果として、櫂は武蔵に提供されたのでしょうか?
(すみません、今日は疑問文でしか書けません、完全降参です)

[C1757] >巌流島・・「場」の勝負

客観は環境側から自分を見る目、主観は自分が環境を見る目、・・・。私なりに考えてみました。

イコール、客観は、「私は原因」であるという思いから、外側から見た自分を見ることであり、主観は「私は結果」であるということから、自分という空洞を認め、外側を見ることである・・・。そんなふうに思いました。

もう少し具体的にいえば、客観は、「他人の目」、「社会の目」、「時代の目」などに基準をおき、それらから自分はどう見えるのか、どう見られているのか、それらに合わせ、考え、自分の内側を見て、磨いていくこと、主観は、「自分」という基準(というか自分という一点の視点)から、外側のすべてを見ること、その瞬間にその中心には「視点」があるだけで、合わせる基準というようなものはなく(自分は空洞だから)、見えたありのままを受け入れていく・・・。

だから、「客観」はするどくはなるけれど、どんどん狭く、細くなる。いきつく先は「点」・・・。その一点の条件にぴったりあてはまるときにだけ勝利が訪れる。「主観」は、始まりが点で、そこから360℃の広がりでどんどん広がって、どんな鋭いものがきても、すべてに対応できるというか・・・。

「客観」は、同じ「客観」の相手同士であれば勝算は十分ありそうだけど、(というか、鋭くなればなるほど勝てそうな)武蔵のように、「主観」の相手には、自分でもわけがわからないうちに負けてしまう。とてつもなく大きな、相手の360℃のネットワークにのみこまれてしまう?という感じがします。

[C1756] 巌流島・・「場」の勝負

 主観的になり、1つの物事に徹すると「場」がとれるというのは、すごいと思いました。
「場」が取れれば、これ以上の味方はいないと思います。
 最近の風潮は客観的に物事を見つめろとよくいいますが、あれでは勝てませんね。
 客観的にというのは、冷めた感じがします。一方主観的というと、熱い感じがします。
 簡単な言葉でかいていますが、「主観的に徹する事が出来ると「場」を自分の見方に付けることが出来る」というのは本当に凄い事だと思います。

[C1754] >巌流島・・「場」の勝負(2)

映画「ホームアローン」のM・カルキン坊やの奮闘振りを思い出しました(笑)。
武蔵と一緒にするなぁーっと怒られそうですが(汗)、
一人でお留守番していたカルキン君のところに、二人組みの泥棒が侵入してくるのですが、
泥棒達だって屋敷の事前調査はしただろうけれども、
やっぱり屋敷のすべてを知り尽くしていて、屋敷にあるすべてのモノやブツをフル活用した
カルキン君が勝利するのです(笑)。
子供ごとき、どうってことない、と思った泥棒達はその客観性ゆえに負けたのだと思いました。
  • 2006/05/29-16:29:02
  • 投稿者 : イーキン
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[C1753] >主観は、自分が環境を見る目です。

>逆に客観は、環境の側から自分を見る目です。
客観的に見たら、ありえないってことでも、主観的だったら、試してみられるのではないかと思いました。なにかするときに、客観的に見てやめたりすることが多いです。試してみられるのは主観的だと思いました。
でも、命をかけた勝負で、木刀を選ぶというのは、試して死んだら困るし、客観的な視点を廃するのがむずかしいのに、武蔵はよく選んだなあと思いました。

>「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです。 
なんかすごくびっくりしました。そういえばそういうことなのだ、とこれも言われてみてハッとしました。いかに自分が茫漠としているかがわかります(汗)
  • 2006/05/29-16:15:54
  • 投稿者 : リョウコ
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[C1752] >巌流島・・「場」の勝負

うううっ、ぐやじい~よぉ~、わからない~。
でも、
負ぁけてらんないのよお~、アンタ達にぃ~~!(惣流・アスカ・ラングレー風)
※ 注)この場合のアンタ達とは、特定の誰かを指していません(笑)。
 
武蔵は一体どこからどこまでの範囲を切り取ったのかを考えた場合、
それは小次郎との決戦の「場」なのでしょうが、それは決戦の当日だけでははくて、
その前後の何日間かの日数も含まれているのだろうかと思いました。
この決戦が自分の「場」取り合戦だとするならば、小次郎は全然「場」を取って
いなかったことになると思いました。
小次郎の客観の世界とは、経験則の世界だと思いました。

[C1751] 場をとる

場を取ることと、主観はそういう風に関係していたのですね。自分が自分を見るのではなく、自分が環境を見る・環境を取り込む・場を切り取る・外側と繋がる。
なんだか、メインコーナーを読むより、ストンと落ちてきました。
客観だと、どの場所にいてもたいして変わりは無いのですね、きっと。見えているはずでも、見えていないのと同じ、といういか。主観はその点、変幻自在というか、あらゆるものが見えている、視野が開けている。

[C1750] スレッドテーマが・・

面白い(笑)。
主観的になるというのは、「場」とつながること・・。
自分の側から環境を見るということ。
一方、客観的は自分を含めいろいろなものは見えるけれど、
肝心な「場」にはつながっていないということ・・。
お~そうかそうか、客観は環境と接点が持てないのか。
敵にもならない代わりに、味方にもならない。
主観は、環境と接点が持てる代わりに、
敵にならないようにだけ気をつければ、怖いものなしだ・・。
お~、イケた・・。
  • 2006/05/29-14:17:40
  • 投稿者 : まる
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[C1749] 主観は、自分視点かぁ!

>「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程>式だけを切り取ることです
おぁ、外側に、本サイトのメインコーナーとの接点があると、何だか、ドキリとします。

主観的とは、外側の環境を積極的に、自分に繋げることなのだと、思いました。
自分だけの目を持つことで、自分と外側のネットワークが強化されそうです。

主観が、自分を見る・・・ではなく、自分の位置から見るという解釈なのが、新鮮です。
現場は、「私」なので、客観的だと、、、、常識的になってしまいすぎて、「私」だけのケース(現場)にマッチしなさそうです。

[C1748] 場

主観的というと、どうしても自分の視点に囚われた自分が自分に呑み込まれてしまった状態のように思いますが、何か違うのだろうと思います。

視点を持つ「自分」が曲者のような気がします。

「私はここに在り」という個の存在が強い独立した「わたし」なら、自分と環境を切離して見てしまうのだと思いました。客観的なのだと思います。

小次郎は剣の腕に私を見出し、存在価値を置いたように思います。

武蔵の主観的は、私も環境の一部で環境に呑み込まれている「わたし」で、だから切離しはできなくて。
武蔵には、「わたし」の中にある環境が見えたのではないかと思いました。

たんたんとした中で、「場」ほのうが、やって来るのではないかと思いました。

場はたった一文字なのに、すごく奥深くて難しいです。

[C1747] 小次郎と客観性

 天気占いで、試しに明日の天気がどうなるのかと占うとあまり当たらない。一方、自分の大切な日の天気だとよく当たるというのを以前読んだ覚えがあります。場が来る・来ないで浮かんだのはこのことでした。客観的というはの自分のこととして考えないことなのかと思います。普通は客観的といえばよいふうに捉えられると思いますが、じつは考えていないのと同じなのかもと思いました。

 小次郎には場が降りなかったということは、小次郎には問いがなかったことになるのではと思いました。でも、小次郎が長剣を見につけ燕返しを習得するまでにはやはり問いを繰り返していたのではと思います。
 長剣がくせものになったのではと思います。長剣のメリットは敵より離れた間合いで戦うことができる点かなと思います。多分小次郎は、それまでの勝負で、傷を負ったことがあまりなかったのではと思います。
 一方、武蔵は勝った試合にしても多少の傷は負ってきたと思います。相手と同じくらいの剣の長さなら偶然にしてもきりつけられることもあると思うから。
 勝つにしても傷を負えば、次にはこんなふうに戦ってと問いと工夫が重ねられると思いますが、(想像ですが)小次郎のように無傷で勝ってしまえば、これでいいんだよなとなるのではと思います。考えないから客観的に判断するようになっていったのかなと思います。
 

[C1745] >巌流島・・「場」の勝負

なかなか言葉で表すことって難しいですが、「客観的な主観的人間」が運命の中では強さを増すのかと思いました。

言い方を変えれば「生かされて生きる」という発想なのかと思いました。

主観的という解釈も「私は原因」と「私は結果」で大きな違いがあると思います。

「私は原因」は個を大切にと言っているわりには、客観的な気がします。

武蔵の主観的生き方は水平な視点でエゴを取り除いた状態でいることなのかと思いました。

[C1744]

客観的に自分を見つめた方がよいと思っていましたがそれでは視点が固定された状態で目の前のことしかみえないのかもと思いました。

主観的に見つめる事はぐるりと360度視点があることであり、
場に自分を置くことでより感じやすくなると思いました。

場を切り取る・・・・・
主観で見る・・・できてるのだろうか(超滝汗)

もりけんさんって現代の武蔵????
  カッコ良すぎる・・・・・( ̄^ ̄)ふん!

[C1743] ☆!!!

>「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです
・・・・。「場」の定義(爆)を切り取りました(汗)
この、ブログだってはじめは「ナンパ(?!)」なブログ・・・
とゆうことで(そんなこと全然、ナイ・・・汗)はじまりましたが
(私がはじめたわけではナイですが、汗)
でも、コメントを投稿するのを、習慣づけてゆく内に、めっちゃ難しいコトまで・・・かろうじて、書き込みできています。
それは「自分」の言葉を使う、とゆう手法しかありませんでした(笑)
そして「自分の言葉」といいつつ、そうゆう感じもしません。
もりけんさんが書いたこと、誰かの書き込み、そうゆう色んな刺激で
何とか書いていて、それを「自分」ってゆうのもなんか、変・・・
です(汗)

私の友達だって、私のおじさんもおばさんも、日中を使って
仕事をせず(汗)こんなに書き込みしているなんて、知りません(笑)
でも、ここで書いてる内容を見せたら「大人!」とか言ってくいれそうで
・・・なんか「えへんっ」って感じだけれど(爆)
でも、普段の私からしたら、なんか違う(汗)と思います。
(普段の私って何?ですけど)
それこそ「場」の中にいるから書けるし、「私」を通すので、
誰かとまったく同じになることもないです。
それに、ここにいると「ツッコミ大臣」がついていて(爆)
頭の中がこんがらがりそうになるくらい・・・です(汗)
頭の中だけ、大忙しです(笑)

[C1742] >巌流島・・「場」の勝負

客観的であるほうが冷静に判断できると一般的にはいわれていると思います。
でも、客観的というのは取りこぼしがあるかもしれないし、あるいは逆に、その場に合わない情報まで拾っている可能性もあると思いました。
 
客観的であれば、生まれ変わりの村の情報というのは特殊扱いされて切り捨てられてしまうだろうと思います。
 
その立ち位置に立たないと見えてこないものというのがあり、それが場なのかもしれないと思いました。

[C1741] 主観的というのは、「場」を取る力だと思うからです

もりけんさんが、時空全体にひろがった時に、次元シフトにアクセスする脈打つ鼓動はすでにひろがっているのではないかでっすうう~~。。言い方を変えれば未来からのメッセージの受信といえるのかもでっすうう~~。。「場」をとるとは。。この鼓動の波に乗っかっちゃうだけで最速最前線ではないかともおもえまっすうう~~♪♪
  • 2006/05/29-10:55:55
  • 投稿者 : バニー
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[C1740] >巌流島・・「場」の勝負

武器を携えた開拓目的の文明人vsターザンみたいなモノでしようか。
彼ら文明人にとっての命綱であり切り札は、銃でありナイフであることで
しょう。しかし、ターザンにとっては森の、ありとあらゆるモノが武器であり
味方なんだと思います。

小次郎は文明人のようなよそ者感がありますが、武蔵には、場に密着した
安定感があります。

「場」を自分のモノにする、、
「場」に自分を差し出すような開けた心持ちが、武蔵の勝因なのかもしれませんね。

[C1739] >では、なぜ、主観的のほうが強いのでしょうか・・。


昨日はなぜかわかりませんでしたが、「主観は、自分が環境を見る目」と
いうのを読んで、やっと少し考えられるようになりました。
  
自分に出来る事というのは、自分で考えつくことだけだと思います。
だからとことん自分の主観を貫けば、同じものを見ていたとしても、他の
人には見えないものが自分には見えてくる可能性があるのだと思いました。
 
客観的に見ると視野には沢山のものが入ってくるかもしれませんが、自分
独特の見方というのは出来ないのかもしれません。
 
「場」を自分のものにした状態というのは、自分の周りの環境が全て手を
伸ばせば触れるもので、使おうと思えば手で握ることが出来るリアルなも
のになるということなのかなと思いました。
だから武蔵の周りには使えるものがいっぱいあった。。。
  
でも小次郎にとって自分の周りの環境は、触れたりするものではない景色
のようなものだったのかなと思いました。

[C1738] >巌流島・・「場」の勝負

客観の世界というのは、確かなようでいて、確かでないような気がします。それは万人に共通ではないからじゃないかと思います。しかし、万人に共通してるような錯覚を持ちやすいようにも思います。
主観の世界のほうが、少なくてもその人にとっての真実があるのではないかと思ったりします。

[C1737] 管理人のみ閲覧できます

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  • 2006/05/29-10:02:25
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巌流島・・「場」の勝負

 昨日は、武蔵のほうが主観的で、小次郎のほうが客観的だと書きました。
 
 では、なぜ、主観的のほうが強いのでしょうか・・。
  
 主観的というのは、「場」を取る力だと思うからです。
 主観は、自分が環境を見る目です。
 
 逆に客観は、環境の側から自分を見る目です。
 
「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです(この説明がわからない人は不思議研究所のメインコーナーをご覧下さい。)
 主観的でないと、切り取り不能です。
 
 武蔵は主観的に徹することが出来たから、「場」を自分のものに出来たのです。
 
 小次郎は客観の世界にいたので、「場」を見方につけることが出来ませんでした。
 
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33件のコメント

[C1940] >主観的というのは、「場」を取る力

「場」を取る力と書かれていたら、なにがなんでも主観的にものを見ようという気になりました。

>主観は、自分が環境を見る目です。
う~ん、この言葉は新鮮です。自分が環境を見る。つまり、周りを見るということですよね。
周りを見て、今自分がどの位置にいるのか・・って、これって客観的って教わったのでは・・また、わからなくなりました。(汗)

自分を知る。そして周りを見る。おのれの力量を知って、常識をこえた眼で周りを見渡すと、自分に味方してくれそううなものがみつかるということなのだろうか・・

なんか、「場」を取る力とは違う気がする。。。(汗)
こっちもメイン同様難しくなってきた気がします。

[C1786] 「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです

うお~~~っ
この解説が、なんか凄い・・・すごすぎる。。

「場」というのは、
もう・・とことん「私」と宇宙の繋がり方だけなんだなと・・・


問いは「私」のものではないと思います。

「問い」を主役として考えてみると、
問いは、個のネットワークを駆けめぐることで、さまざまな「場」を体験することができます。

この宇宙が神の脳みそだとすれば、
問いは、神の脳みそを駆けめぐる電気パルスです。

私たちは、皆それぞれ宇宙と独自のつながり方をしているのだとすれば、
問いが「個」を通過するたびに、神はひとつひとつ違った刺激を得られるのだと思います。

[C1779] >巌流島・・「場」の勝負

悩みに陥ったとき、自分を客観的に見る方がよい、と思ったことがあります。
一歩はなれて自分を見る・・
はまりこまない・・

でもそれでは結局視野が広がることにもならず、何の解決にもならないのでは、と今日の書き込みで思いました。

主観というのが、自分が環境をみる目、というのがとても、新鮮で驚きです。

一歩はなれようがなんだろうが、自分を見ることから視線をはずし、周りを見なければ、一緒なのかもしれません。

主観的に周りを見たとき・・そこには「自分が、自分が・・」というのはもうないと思います。
そういうときに、「場」が取れるのかなあと思いました。

[C1775] 「いる」ということ

主観的というのは「私がそこにいる」ということを自覚しているのだと思います。
客観的というのは「私はここにいてそこを見ている」というものだと思います。

主観的とは「立ち位置=感知する対象の中にいる」であり、
客観的とは「立ち位置=感知する対象の外側にいる」なのだと思いました。

常識などを疑わずに前提とするのも、感知する対象の外側から見ている状態なのだと思います。
昔流行った覗き部屋みたいです。

客観的にすればするほど、対象から実は離れていき、自分が場から離れていくのかもしれません。

[C1774] 派閥v.s一匹狼

会社組織が浮かびました。
小次郎も武蔵も新入社員だとして・・
小次郎は入社早々幹部に見いだされ、社長の派閥に組み込まれ、周囲の羨望の的となる・・
かたや武蔵はマイペースで型破りな仕事ぶりが、まわりの女子社員のハートをときめかせど、(ちゃちな)上司からは一向に認められない鼻つまみ者扱い・・
小次郎は派閥内じゃ一番下っ端なもんで、常にエラい人たちの顔色うかがってなきゃいけません。
仕事をこなす上でも、自分のやり方を通すより、気に入られるようやらねばならない苦痛も生じてきました。
武蔵は自由にのびのび仕事してるので、まわりも自然明るい雰囲気になっているのが(ちゃちな)上司にさえわかるようになってきました。
武蔵もどんどん発想が広がり、仕事そのものが楽しいとさえ思えるようになりました。
そこで社内スポーツ大会が催され・・・
日頃のうっぷんをぶつけたい小次郎が強いかなと思えるところ、実はイライラが過ぎて胃の調子が悪くって、本調子が出なくって・・
対して武蔵にゃ黄色い声援だけでなく、買ったら皆におごってやると(ちゃちな)上司が言ったもんだから、部署を上げて大盛況の応援です。
そして勝敗は・・・
派閥って、それごとコケたら出世もアウトどころか社内に居場所さえなくしそうで、やっかいそうです。
一匹狼がたくさん棲息できる職場がどうも良さそうデス。
で、派閥の一員だと小次郎は自分を客観的に見なしたと言え、武蔵は主観的に自分が動いたと言えるかなと思いました。

[C1768] >巌流島・・「場」の勝負

 主観で場を引き寄せる、場は主観によって切り取られる、とても私には思い言葉でありました。武蔵というより、全てに人にとっての最終兵器は研ぎ澄まされた主観であるのかと思いました。
  • 2006/05/30-03:18:39
  • 投稿者 : yk
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  • 2006/05/30-00:32:50
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[C1766] >巌流島・・「場」の勝負

>逆に客観は、環境の側から自分を見る目です

確かに。
一般的に客観的な意見などは環境の側、今の世間の流れの目で言われることが多いような気がします。
そしてその客観的な意見をいかにも主観のように勘違いしてしまう時があります。
感覚ってイリュージョンのうようです。
自分の感覚なんだか他人の感覚なんだか時々ごっちゃになります。

>主観的というのは、「場」を取る力だと思うからです。
>主観は、自分が環境を見る目です。

主観的ってすごく鋭いです。

[C1764] >巌流島・・「場」の勝負

>武蔵は主観的に徹することが出来たから、「場」を自分のものに出来たのです。
 
>小次郎は客観の世界にいたので、「場」を見方につけることが出来ませんでした。


主観的にものごとを見るということは、
自分のものさし(スケール)を持っているということだと思います。

そして、それは、発する問いによって、伸縮自在のような感じがします。

それは、自分の視点から環境を見るということであり、「場」を切り取ることだと思いました。

一方、客観的ということは、世間のスケールを使います。

そのスケールを使っていると、「個」は規格化され、いのちのような何かが失われてしまうのではないか・・と思いました。

主観的であることは、そのつど「場」をとり、
「場」とネットワークでつながる・・
ように思います。


[C1763] >主観的というのは、「場」を取る力

世の中にはいつも一番おいしいところをかっさらっていくように見える人がいます。武蔵ももりけんさんも、そのような人に見えます。

「場」をとるということも、このような幸運に恵まれるということも、事後的にそうであるのであって、物事が進行しているときには、うまくいっているかどうかということは、本人にはわからないのではないかと思います。また、卦にしても、後から検証してみてはじめて、「場」がとれていたかどうかということが確定するのだと思います。

「お金をもうけたい」とか「出世したい」とかいう目的を持っている場合、何をすればいいかははっきりしています。しかし、「場」をとるとか一番おいしい部分をかっさらうということで動いている場合には、何をすればよいかがはっきりしてはいません。何をすればよいかがはっきりしてはいないのに、止まっているわけにはいきません...。

そのようなときに必要になる羅針盤のようなものが「主観」ではないかと思います。これはうまくいっていそうな人のやり方をそのままもってきたりしてもうまくいかないと思います。また客観的な常識と相反するような場合もあるかもしれません。

羅針盤と書きましたが、ユングであれば曼荼羅だというかもしれません。行動の渦中にありながら、全体を知る力なのだと思います。

うまくいくかどうかわからないけれども必死にやっているとき、このような曼荼羅や「自己」というものを垣間見たような気がすることが誰にでもあると思います。

おそらくその瞬間、無意識や「場」とつながっているのだと思います。死の時点から過去を振り返ってみれば運命は詳細にいたるまで、全て決まっています。おそらく、その視点に立つ回路が開ける瞬間があるということなのかもしれません。

そう考えると、客観は太陽に目隠しをされて盲目 になった「昼」であり、主観は闇の中で感覚が鋭く無限に広がってより遠くまで見渡せるようになった「夜」ということになるのかもしれません。
  • 2006/05/29-20:38:13
  • 投稿者 : ナイル
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[C1762]  主観的というのは、「場」を取る力だと思うからです。

なんだか、腑に落ちました。
「私が原因」だと主観的にしろ、客観的にしろ、視線の方向は結局自分です。
ところが、「私は結果」だと視線の方向が外側に向いています。
つまり、>自分が環境を見る目です。 この視線を持っている人は少ないと思います。
>「場」を自分のものに出来たのです。

一見、客観性を保とうと、社会性とも言いますが「私は原因」の人から見ると、自分に視線が向いた主観的な奴、跳び蹴りを入れたいほどわがままな奴と自分が環境を見る目を持った主観的な人との区別がつき難いです。(爆)

でも、このブログやHPがおもしろいのは、「場」が取れているからなのだと思います。
ただで、「場」を取る秘訣を聞けました。(爆)

[C1761]

> Σ(゚Д゚)そう、そういえば!
 
so yeah 場!………(汗)
ブログが軟派な感じがしません。。スレッドテーマだけ軟派かも。。。今日は読んでもの凄い盛り上がりました。ココは心の中では「裏メイン」です。。
 
>主観は、自分が環境を見る目です。
>「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです
>主観的でないと、切り取り不能です。
 
はー…マイリマシタ。。もりけんさんには「場」がそう見えたのかと思って。。萌えました。いきなり「場」の話になるとは思わなかったです。
 
確かに主観以外で切り取りできません。
 
『宇宙の中で自分に関する運動方程式』というのは既に決まっていると思います。そしてその通りに「私」は動いていくのだと思います。その場合。。あたかも自分でモノゴトを決めたかのように。。動くのだと思います。そしてそれは運動方程式ですから。。自分の中を見つめてもソコにはありません。外との関係で。。しかしそれに乗せられていきます。。。
 
すると未来も知らない武蔵がなぜ「場」を掌握しきれたか。。
 
外を徹底的に見たことが功を奏したのだと思います。彼は外側が全てに呼び起こされた感覚をつぶさに見たのだと思います。。武蔵の運動方程式も決まっていたでしょう。。見えはしませんが。。もうどのブツと関係があるかまで決まっていて。。外を見ることでそこに感覚が引っかかり。。キチキチにタイトにシンクロしていったのではないかと思います。時空感度良好だったのではないかと思います。「感じたこと」や「思うこと」しか実行できないのを逆手にとって。。引っかかるブツで自分に関係する方程式を気づかずにあぶり出し。。さらにノイズ(希望的観測・客観性)を覗き。。タイトにあわせて「場」を掌握していったのではないかと思いました。(。。。矛盾だらけですが。。)
 
小次郎は。。客観的に判断していったから。。それがノイズとなり。。運命のままで。。時空を感じるまではいかなかったんじゃないかと思いました。 

「私」の運命の運動方程式に載るのは。。それに感応する「私」しかいないのだと思いました。
 

[C1760] 主観

相手の立場に立たなければ判断を誤るとよく言われそうかなと思い、
自分の感じて知りたいという気持ちをどこかに押さえ込んで無感覚になっていると思いました。
客観性は私が自分の感覚を見つけられないことになっていくように思います。
武蔵は自分の感覚でどうやって勝つかを考えてどんなものも見逃さない意気がありました。
自分の主観でしか一瞬の差は見えてこない。
だからこそいろいろなものを味方にできたよう思います。

  • 2006/05/29-20:17:30
  • 投稿者 : 小町
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[C1759] >主観的というのは、「場」を取る力

主観 = 電波(問い)を環境に向けて発信する側、
客観(環境) = 電波を受信して、反応(発動?)する側、と仮定してみました。

小次郎が環境に埋没していたとすれば、小次郎は電波を発信できなくて当然だと思います。
恐らく、小次郎は、自分がどうあるべきかにほとんど集中していたのでしょう。
ベクトルが、環境→自分への一方通行のようです。 自らは、電波の発信源にはなれなか
ったのかもしれません。

武蔵は、果敢に電波(問い?)を時空(=環境でしょうか?)に向けて発射したように思え
ます。 あたかも、空洞の自分からその周りに広がる時空へ問いかけるように・・・
もしそうならば、この場合のベクトルは、自分→環境といえるでしょうか?

(知ったかぶりで恥ずかしいのですが)六爻占術でコインを振るとき、具体的で明確な問い
を持ってコインを振らなければ、場を取るのが難しいといいます。 頭の中でAのこと考え
ながら、Bについてコインを振ったりするのも場が取れない原因のようです。
また、問いかける人の意識と無意識が一致していないと、強い電波が飛ばないのかもしれま
せん。 時空の側(環境の側)にも、無意識があるならば、無意識同士(?)で共振するこ
も考えられます。

いずれにせよ、武蔵はそのようにして場を取り、場そのものを味方にしてしまったのでしょ
うか? その結果として、櫂は武蔵に提供されたのでしょうか?
(すみません、今日は疑問文でしか書けません、完全降参です)

[C1757] >巌流島・・「場」の勝負

客観は環境側から自分を見る目、主観は自分が環境を見る目、・・・。私なりに考えてみました。

イコール、客観は、「私は原因」であるという思いから、外側から見た自分を見ることであり、主観は「私は結果」であるということから、自分という空洞を認め、外側を見ることである・・・。そんなふうに思いました。

もう少し具体的にいえば、客観は、「他人の目」、「社会の目」、「時代の目」などに基準をおき、それらから自分はどう見えるのか、どう見られているのか、それらに合わせ、考え、自分の内側を見て、磨いていくこと、主観は、「自分」という基準(というか自分という一点の視点)から、外側のすべてを見ること、その瞬間にその中心には「視点」があるだけで、合わせる基準というようなものはなく(自分は空洞だから)、見えたありのままを受け入れていく・・・。

だから、「客観」はするどくはなるけれど、どんどん狭く、細くなる。いきつく先は「点」・・・。その一点の条件にぴったりあてはまるときにだけ勝利が訪れる。「主観」は、始まりが点で、そこから360℃の広がりでどんどん広がって、どんな鋭いものがきても、すべてに対応できるというか・・・。

「客観」は、同じ「客観」の相手同士であれば勝算は十分ありそうだけど、(というか、鋭くなればなるほど勝てそうな)武蔵のように、「主観」の相手には、自分でもわけがわからないうちに負けてしまう。とてつもなく大きな、相手の360℃のネットワークにのみこまれてしまう?という感じがします。

[C1756] 巌流島・・「場」の勝負

 主観的になり、1つの物事に徹すると「場」がとれるというのは、すごいと思いました。
「場」が取れれば、これ以上の味方はいないと思います。
 最近の風潮は客観的に物事を見つめろとよくいいますが、あれでは勝てませんね。
 客観的にというのは、冷めた感じがします。一方主観的というと、熱い感じがします。
 簡単な言葉でかいていますが、「主観的に徹する事が出来ると「場」を自分の見方に付けることが出来る」というのは本当に凄い事だと思います。

[C1754] >巌流島・・「場」の勝負(2)

映画「ホームアローン」のM・カルキン坊やの奮闘振りを思い出しました(笑)。
武蔵と一緒にするなぁーっと怒られそうですが(汗)、
一人でお留守番していたカルキン君のところに、二人組みの泥棒が侵入してくるのですが、
泥棒達だって屋敷の事前調査はしただろうけれども、
やっぱり屋敷のすべてを知り尽くしていて、屋敷にあるすべてのモノやブツをフル活用した
カルキン君が勝利するのです(笑)。
子供ごとき、どうってことない、と思った泥棒達はその客観性ゆえに負けたのだと思いました。
  • 2006/05/29-16:29:02
  • 投稿者 : イーキン
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[C1753] >主観は、自分が環境を見る目です。

>逆に客観は、環境の側から自分を見る目です。
客観的に見たら、ありえないってことでも、主観的だったら、試してみられるのではないかと思いました。なにかするときに、客観的に見てやめたりすることが多いです。試してみられるのは主観的だと思いました。
でも、命をかけた勝負で、木刀を選ぶというのは、試して死んだら困るし、客観的な視点を廃するのがむずかしいのに、武蔵はよく選んだなあと思いました。

>「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです。 
なんかすごくびっくりしました。そういえばそういうことなのだ、とこれも言われてみてハッとしました。いかに自分が茫漠としているかがわかります(汗)
  • 2006/05/29-16:15:54
  • 投稿者 : リョウコ
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[C1752] >巌流島・・「場」の勝負

うううっ、ぐやじい~よぉ~、わからない~。
でも、
負ぁけてらんないのよお~、アンタ達にぃ~~!(惣流・アスカ・ラングレー風)
※ 注)この場合のアンタ達とは、特定の誰かを指していません(笑)。
 
武蔵は一体どこからどこまでの範囲を切り取ったのかを考えた場合、
それは小次郎との決戦の「場」なのでしょうが、それは決戦の当日だけでははくて、
その前後の何日間かの日数も含まれているのだろうかと思いました。
この決戦が自分の「場」取り合戦だとするならば、小次郎は全然「場」を取って
いなかったことになると思いました。
小次郎の客観の世界とは、経験則の世界だと思いました。

[C1751] 場をとる

場を取ることと、主観はそういう風に関係していたのですね。自分が自分を見るのではなく、自分が環境を見る・環境を取り込む・場を切り取る・外側と繋がる。
なんだか、メインコーナーを読むより、ストンと落ちてきました。
客観だと、どの場所にいてもたいして変わりは無いのですね、きっと。見えているはずでも、見えていないのと同じ、といういか。主観はその点、変幻自在というか、あらゆるものが見えている、視野が開けている。

[C1750] スレッドテーマが・・

面白い(笑)。
主観的になるというのは、「場」とつながること・・。
自分の側から環境を見るということ。
一方、客観的は自分を含めいろいろなものは見えるけれど、
肝心な「場」にはつながっていないということ・・。
お~そうかそうか、客観は環境と接点が持てないのか。
敵にもならない代わりに、味方にもならない。
主観は、環境と接点が持てる代わりに、
敵にならないようにだけ気をつければ、怖いものなしだ・・。
お~、イケた・・。
  • 2006/05/29-14:17:40
  • 投稿者 : まる
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[C1749] 主観は、自分視点かぁ!

>「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程>式だけを切り取ることです
おぁ、外側に、本サイトのメインコーナーとの接点があると、何だか、ドキリとします。

主観的とは、外側の環境を積極的に、自分に繋げることなのだと、思いました。
自分だけの目を持つことで、自分と外側のネットワークが強化されそうです。

主観が、自分を見る・・・ではなく、自分の位置から見るという解釈なのが、新鮮です。
現場は、「私」なので、客観的だと、、、、常識的になってしまいすぎて、「私」だけのケース(現場)にマッチしなさそうです。

[C1748] 場

主観的というと、どうしても自分の視点に囚われた自分が自分に呑み込まれてしまった状態のように思いますが、何か違うのだろうと思います。

視点を持つ「自分」が曲者のような気がします。

「私はここに在り」という個の存在が強い独立した「わたし」なら、自分と環境を切離して見てしまうのだと思いました。客観的なのだと思います。

小次郎は剣の腕に私を見出し、存在価値を置いたように思います。

武蔵の主観的は、私も環境の一部で環境に呑み込まれている「わたし」で、だから切離しはできなくて。
武蔵には、「わたし」の中にある環境が見えたのではないかと思いました。

たんたんとした中で、「場」ほのうが、やって来るのではないかと思いました。

場はたった一文字なのに、すごく奥深くて難しいです。

[C1747] 小次郎と客観性

 天気占いで、試しに明日の天気がどうなるのかと占うとあまり当たらない。一方、自分の大切な日の天気だとよく当たるというのを以前読んだ覚えがあります。場が来る・来ないで浮かんだのはこのことでした。客観的というはの自分のこととして考えないことなのかと思います。普通は客観的といえばよいふうに捉えられると思いますが、じつは考えていないのと同じなのかもと思いました。

 小次郎には場が降りなかったということは、小次郎には問いがなかったことになるのではと思いました。でも、小次郎が長剣を見につけ燕返しを習得するまでにはやはり問いを繰り返していたのではと思います。
 長剣がくせものになったのではと思います。長剣のメリットは敵より離れた間合いで戦うことができる点かなと思います。多分小次郎は、それまでの勝負で、傷を負ったことがあまりなかったのではと思います。
 一方、武蔵は勝った試合にしても多少の傷は負ってきたと思います。相手と同じくらいの剣の長さなら偶然にしてもきりつけられることもあると思うから。
 勝つにしても傷を負えば、次にはこんなふうに戦ってと問いと工夫が重ねられると思いますが、(想像ですが)小次郎のように無傷で勝ってしまえば、これでいいんだよなとなるのではと思います。考えないから客観的に判断するようになっていったのかなと思います。
 

[C1745] >巌流島・・「場」の勝負

なかなか言葉で表すことって難しいですが、「客観的な主観的人間」が運命の中では強さを増すのかと思いました。

言い方を変えれば「生かされて生きる」という発想なのかと思いました。

主観的という解釈も「私は原因」と「私は結果」で大きな違いがあると思います。

「私は原因」は個を大切にと言っているわりには、客観的な気がします。

武蔵の主観的生き方は水平な視点でエゴを取り除いた状態でいることなのかと思いました。

[C1744]

客観的に自分を見つめた方がよいと思っていましたがそれでは視点が固定された状態で目の前のことしかみえないのかもと思いました。

主観的に見つめる事はぐるりと360度視点があることであり、
場に自分を置くことでより感じやすくなると思いました。

場を切り取る・・・・・
主観で見る・・・できてるのだろうか(超滝汗)

もりけんさんって現代の武蔵????
  カッコ良すぎる・・・・・( ̄^ ̄)ふん!

[C1743] ☆!!!

>「場」というのは、宇宙の中で自分に関する運動方程式だけを切り取ることです
・・・・。「場」の定義(爆)を切り取りました(汗)
この、ブログだってはじめは「ナンパ(?!)」なブログ・・・
とゆうことで(そんなこと全然、ナイ・・・汗)はじまりましたが
(私がはじめたわけではナイですが、汗)
でも、コメントを投稿するのを、習慣づけてゆく内に、めっちゃ難しいコトまで・・・かろうじて、書き込みできています。
それは「自分」の言葉を使う、とゆう手法しかありませんでした(笑)
そして「自分の言葉」といいつつ、そうゆう感じもしません。
もりけんさんが書いたこと、誰かの書き込み、そうゆう色んな刺激で
何とか書いていて、それを「自分」ってゆうのもなんか、変・・・
です(汗)

私の友達だって、私のおじさんもおばさんも、日中を使って
仕事をせず(汗)こんなに書き込みしているなんて、知りません(笑)
でも、ここで書いてる内容を見せたら「大人!」とか言ってくいれそうで
・・・なんか「えへんっ」って感じだけれど(爆)
でも、普段の私からしたら、なんか違う(汗)と思います。
(普段の私って何?ですけど)
それこそ「場」の中にいるから書けるし、「私」を通すので、
誰かとまったく同じになることもないです。
それに、ここにいると「ツッコミ大臣」がついていて(爆)
頭の中がこんがらがりそうになるくらい・・・です(汗)
頭の中だけ、大忙しです(笑)

[C1742] >巌流島・・「場」の勝負

客観的であるほうが冷静に判断できると一般的にはいわれていると思います。
でも、客観的というのは取りこぼしがあるかもしれないし、あるいは逆に、その場に合わない情報まで拾っている可能性もあると思いました。
 
客観的であれば、生まれ変わりの村の情報というのは特殊扱いされて切り捨てられてしまうだろうと思います。
 
その立ち位置に立たないと見えてこないものというのがあり、それが場なのかもしれないと思いました。

[C1741] 主観的というのは、「場」を取る力だと思うからです

もりけんさんが、時空全体にひろがった時に、次元シフトにアクセスする脈打つ鼓動はすでにひろがっているのではないかでっすうう~~。。言い方を変えれば未来からのメッセージの受信といえるのかもでっすうう~~。。「場」をとるとは。。この鼓動の波に乗っかっちゃうだけで最速最前線ではないかともおもえまっすうう~~♪♪
  • 2006/05/29-10:55:55
  • 投稿者 : バニー
  • URL
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[C1740] >巌流島・・「場」の勝負

武器を携えた開拓目的の文明人vsターザンみたいなモノでしようか。
彼ら文明人にとっての命綱であり切り札は、銃でありナイフであることで
しょう。しかし、ターザンにとっては森の、ありとあらゆるモノが武器であり
味方なんだと思います。

小次郎は文明人のようなよそ者感がありますが、武蔵には、場に密着した
安定感があります。

「場」を自分のモノにする、、
「場」に自分を差し出すような開けた心持ちが、武蔵の勝因なのかもしれませんね。

[C1739] >では、なぜ、主観的のほうが強いのでしょうか・・。


昨日はなぜかわかりませんでしたが、「主観は、自分が環境を見る目」と
いうのを読んで、やっと少し考えられるようになりました。
  
自分に出来る事というのは、自分で考えつくことだけだと思います。
だからとことん自分の主観を貫けば、同じものを見ていたとしても、他の
人には見えないものが自分には見えてくる可能性があるのだと思いました。
 
客観的に見ると視野には沢山のものが入ってくるかもしれませんが、自分
独特の見方というのは出来ないのかもしれません。
 
「場」を自分のものにした状態というのは、自分の周りの環境が全て手を
伸ばせば触れるもので、使おうと思えば手で握ることが出来るリアルなも
のになるということなのかなと思いました。
だから武蔵の周りには使えるものがいっぱいあった。。。
  
でも小次郎にとって自分の周りの環境は、触れたりするものではない景色
のようなものだったのかなと思いました。

[C1738] >巌流島・・「場」の勝負

客観の世界というのは、確かなようでいて、確かでないような気がします。それは万人に共通ではないからじゃないかと思います。しかし、万人に共通してるような錯覚を持ちやすいようにも思います。
主観の世界のほうが、少なくてもその人にとっての真実があるのではないかと思ったりします。

[C1737] 管理人のみ閲覧できます

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  • 2006/05/29-10:02:25
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