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[C2078]

 武蔵陣営は、旦那は舟を用意して、佐助はいわれもないのに船頭役を務め、、、
 周囲の人たちのいきさつは知りませんが、武蔵が「開かれた人」だから、みんなで武蔵を気にして連携プレーがうまくいったと思います。
 
 一方、小次郎陣営は、小次郎が勝てばなにかいい事がある、というような雰囲気すらします。その雰囲気は小次郎が「閉じられた人」だから、皆で連携してなにかをするという行動にはならなかったのかと思いました。

[C2054] 「私」

武蔵にとっての「私」とは、プライドを棄てた後に残ったものがそれではないかと考え
ました。 プライドを捨て去ることは、誰にとっても難しいのが普通だと思います。
武蔵とて、父親や和尚に「お前は弱い」と叩きのめされても、「俺は強い」と抵抗し、
自分の弱さを認めませんでした。

武蔵は試してみたのでしょうか。「自分が弱い」という視点で、一度自分を見てみよう
と。 その結果、意外にも「私」という意識は崩壊しなかった・・・それまでは、自分
が弱いということを一瞬でも認めようものなら、自分が自分で無くなるか、自分が崩壊
してしまうかのような恐怖心があったのに、実際は全然違っていた。 それどころか、
「私」という意識は自分の外側に向かって放たれて、その方が気持ちがいいほどだった
のかもしれません。

外側に開かれた「私」とは、私を諦め切ったところで初めて出会える自分、とも思えま
した。

[C2053] 外に開く

 内に自己完結していた小次郎、外を見ていなかった、あまりにも自分の技だけにおぼれてしまったと思います。どんなにすぐれた技もそれを生かす環境がなければ効果は半減すると思います。それに比べて外に開かれていた武蔵は常に自分をどうしたら生かせるかという視点に立って戦いの「場」というものを形つくってきたと思います。人はひとりでは、生きられません、どんなに優れたものやこともポピュラリティを得るように外へひらけなければ、伝わらないし、つながれないと思いました。
  • 2006/06/07-06:49:50
  • 投稿者 : yk
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[C2052] >武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

「私」が閉じられたものか開かれたものか・・
この違いはすごいと思いました。
そして分かりやすいです。

おなじお礼を言わない・・でも、本当に全然違います。

自分の力を伸ばそう、がんばろう、と思った時点で、「私」は閉じられるのだと思いました。

でも、何も意識していなければ、「私」を閉じる方へいってしまいそうです。
それは、まだ「自分がある」から・・
「私は原因」の部分があるから・・

もりけんさんの本の「開放」「リリース」というのを思い出しました。

[C2051] >武蔵と小次郎は「私」を、どう捉えていたのでしょうか?

手っ取り早く言えば小次郎は私が原因派で、武蔵は私は結果派だったと思います。

小次郎にとって私が原因で、剣のセンスがもともとあったのも、それを生かすべく剣の修行をしたのも自分で、他の誰でもない自分の力で腕前を勝ち取ったと思っていたと思います。
だから敗れても、相手が卑怯だとか、無念だとか思ったのではないかと思います。
勝負は時の運といいますが、自分の実力でそれをカバーできると思っていたのではないでしょうか・・。

一方武蔵は自分が弱いことを知っていたから周りの状況を分析もするし準備もするし演出もします。
剣の腕前があっても、それまでの人生で私は結果を体感していたのかもしれません。
そして私とは開かれたものと・・と思っていないとあらゆるものにつながることは出来なかったと思います。

人は、自分は強いとか自分は特別だとかレベルが高いと思ったときに、すでに負けているのかもしれないと思いました。
  • 2006/06/07-01:40:04
  • 投稿者 : 空タネ
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[C2050] >巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

小次郎がお礼をいわないのは、自分で100%勝ったから・・

武蔵の場合は、すべてに言うことになるから。。

同じ行為でも、小次郎と武蔵は真逆だと思いました。


>小次郎にとって「私」とは、閉じられたもの・・
 
>武蔵にとって「私」とは、開かれたもの・・
 

武蔵にとっての「私」は、ネットワークのノードとしてのわたしだと思いました。


大旦那・・
 佐助・・
 浅瀬の具合・・
 曇らなかったその日の天気・・


武蔵にとってのあらゆる外側が、つながっていたのだと思います。

でも、小次郎は、技だけだった・・
自分しか見えていなかった・・

閉じられていて、外界とのつながりは切れていたでしょう


武蔵にとって私とは、外界とのつながりにおけるノードなので、広がりを感じます・・

でも・・
小次郎にとっての「私」は、

外界とのネットワークの途切れた、小さな「私」なのだと思いました。


[C2049] >巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?


「俺は強い!」と叫んでいたときの武蔵は、閉じていたのだろうと思います。
しかし、「弱い自分」を認められるようになってから、鳥の声が聞こえるようになり、開かれたのではないかと思いました。

[C2048] >たったこれだけの差かも知れません。

小次郎も武蔵も「私」という意識はあったと思うし、身体や思考、周りの
人間や環境との関係などで、形の定まった具体的なものとして「私」を認
識していたんじゃないかと思います。
 
でも意識していない部分では、小次郎と武蔵はこんなにも違っていたんだ
なと思いました。
 
小次郎が閉じられた自分しか感じていなかったのだとしたら、武蔵は閉じ
られた自分と開かれた自分の両方を感じていたんじゃないかと思います。
 
だから武蔵は「私」という個を感じつつも、自分の周りの全てに意識が向
いて、自分もそこに含まれて繋がっているのだと感じたのかも知れないと
思いました。

[C2047] >「私」

「私」への執着を捨てたとき、運命は切り開くものから、ゆだねるものへと変化しそうな気がします。
閉じられた「私」のままでは、あらゆるもののとの繋がりを感じることはできそうにありません。
あくまでも「私」あっての世界でしかないような・・・

大旦那も佐助も礼を言われることなど望んでいないと思います。
むしろ、この戦いの一端に係われたことを誇りと感じているかもしれません。
そこには一体となったという感覚があるように思いました。

「たったこれだけの差」という言葉が胸に沁みます。
これだけがなんと大きいことか・・・(ため息)

[C2046] 武蔵と小次郎は「私」を、どう捉えていたのでしょうか?

小次郎武蔵戦だけにかかわらず。。。剣の道には、生死をかけた戦いがあり。。。時空を、マジかに感じたのかも~とも思います。。あ。。武蔵が勝利したのは。。。水辺を走ったことで。。。宇宙の派動と地球の波動をとうしやすくなったのかな。。。ビンビン~~♪♪きっと。。体もあったまってきてて武蔵と宇宙とシンクロしたのかも~~♪♪

  • 2006/06/06-20:44:40
  • 投稿者 : バニー
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[C2045] つきなみな所から入りますが

この二人が負けた場合、小次郎は自分の剣の技術が悪かったのだと思うのでしょう。一方武蔵は自分以外の全てのものが悪かったという風に考えるでしょう。

しかしこれではへんです。よっておそらく武蔵はそもそも感謝もしていないのではないかと思います。負けて恨んだりもしなれば、勝っても誰にも感謝もしないし、自分の技術が達者だったとも思わないでしょう。

武蔵が人間としてもっている普通の他の人に対する感謝と、今回の試合に勝ったときの周囲や時空に対する感謝とは、武蔵の中では種類が違うのかもしれません。大旦那たちに対する感謝はあったにせよ、それは人間武蔵の部分の感謝であって、周囲や時空に対する感謝とは別物なのではないかと思います。

そしておそらくこの仮説がいいのではないかと思いました...。

武蔵が周囲のものに対する感情は、我々が通常思い浮かべるような「感謝」とは違い、もっと、透徹した、冷たく透明なものなのではないかと思います。

そもそも、小次郎から見れば武蔵の勝ち方は理不尽なものだと思います。

このような「理不尽」な勝ち方をしたということに対して何も感じない代わりに、逆に武蔵自身が、さらに策を弄する刺客から、理不尽な殺され方をしたとしても、きっと何も感じなかったと思います。

100%時空に弱みをさらしており、完全に無防備な状態だったのかもしません。

ひとりの個としての武蔵を越えた周囲のものに対する愛とはこのようなものだったのかもしれません。
  • 2006/06/06-20:23:59
  • 投稿者 : ナイル
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[C2044] 私とは何だろう

小次郎と武蔵は「私」の捉え方が正反対だと思いました。
私の所在を外に向けた武蔵はいろいろな助け手を得ていますがそれぞれが相手を思っていますが
寄りかかってはいないと思いました。
「私」というものを考える時この寄りかからないで立てることが「私」というものであるように思います。
武蔵がちゃんと立っているから助け手も安心して味方ができるように思います。

[C2043] >たったこれだけの差かも知れません。

たったこれだけ、でも、ものすごい差、でもあると思いました。開かれた自分は、己の能力にこだわらず、外界に問うことで外応をキャッチし、自分自身に多くのプラスαを加えることが出来るのだと思います。ものすごいお得感があります。


事実を認めることに気付かないで、自分の内側へ内側へと入り込んで行く思考回路は、いったいいつから始まったのだろう、なぜ始まったのだろう、と思ってしまいます。ふしとものHPやこのブログに来るまで、これほどハッキリと生き方の違いに気付けませんでした。大元はいったい何だったのでしょう・・。


目指せ、小次郎的生き方、が圧倒的な世の中で、武蔵のあり方に気付けたことは、幸いです。

[C2042] >武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

私とは?この問いは常に抱いていて、これからもずっと考え続けることだと思います(永遠かも・・)。

今回のもりけんさんの投稿で「閉ざす」か「開くか」の差について書かれていますが、内面を見ているから外側を見ているかということだと思います。
さらに、「自分のことしか見えない」か「自分以外のものも見ることができるか」の差なのだと思います。
最近感じるのは、「自分のことしか見えない」とき、確実に運が味方についていないと感じ、「外側を見ている」ときは自分が求めなくても時空が運をよくさせてくださいと言っているかのように味方についている感覚を受けます。
人間は弱い人間ですから、たまにさみしくなったり、不安になったりするとは思いますが、これは当然のことなんだと思います。
こんな状態に陥るときに、誰かのせいとか私は不幸な人だ、私はいけない人だと自分を評価してしまうようになると、それは「内面を見ている」状態に入ってしまい、運からどんどん離れているのだなと思います。
ただ、その感情を極端な話楽しめばいいのではないかと思います(論じてすんません(汗))。

小次郎はすごく強い人だったと思います。
しかし、武蔵は「内面じゃないんだ・・・」という気づきを手に入れることができたのだと思います。
小次郎は「自分のおかげ」という考えから変化することができなかったのだと思います。

運を自分が変化するのではなく、自分は固定化されてまわりが変化している感覚なのかと感じます。

[C2041] >閉じられた自分、開かれた自分

最近になって、外側にあまり抵抗感を感じなくなりました。
そうなった方が上手く回るような感触はあります。
といっても運を良くすることを目的にしているわけではなく、
なんとなくそうなった感じです。
いかに自分がどうでもいいことに抵抗してエネルギーを消耗していた
のだと思います。
だからほんの少しだけ武蔵の状況がわかるような気がします。
でも私の場合は、盲師派推命占術によって、運命は決まっているのだからを
考えるようになったからで、武蔵の経緯とは全然違いますが。
「自分は弱い」と事実を認めたことによって、自分を明け渡した方が上手くいく
ことに気が付いたのだと思います。
お礼を言わないのは、常に周りと一体になっているからかなと思いました。
  • 2006/06/06-17:18:57
  • 投稿者 : イーキン
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[C2040] (くろこちゃん!)

亀ですが・・はじめまして!
(もう、ものすごく、、、かわいい~!!!)

[C2039] 閉鎖空間で堂々巡り

(汗)私って何?と、籠もって考えれば考えるほどわからなくなるのは、
私の内面には何もないということなんじゃないか、と思いましたが・・・

はっきりしていることは「外側」なしに、「私」は存在出来ないと言うことですが、
小次郎は閉じた空間で、自分をほめるとしたら(汗)
外側をはっきり見ていた武蔵が、「自分」を見ていたということになるのではと思いました。

うーん、、何か「はっ」としたのですが、今は、つかまえられませんでした(がっくり)

[C2038]

武蔵は自分の限界を知っていたからではないかと思いました。

なんでもがんばればできるとかよくいいますが、やはり己を知れば限界がわかります。
やれるだけのことをやったら後はおまかせ。。。。
ということが解っていたのではないかな。。。。と思いました。

でもそれはなかなかできません。口に出すとまわりは努力が足らないだの。。行動力・気力がないだのと
のたまうから・・・(爆)

もう運命におまかせ・・・・です。

[C2037] ありがとう教、危うし、


「ありがとう」と多くの人にその言葉を発すると、自分がツイてくるという事例があるそうです。
しかし、この例から言うと、「ありがとう」と言えば、「ありがとう」と言われない人ができることになり、
「ありがとう」と言えば言うほど、自分の周囲の環境との関係を断ち切ることになってしまうと、思いました。

優れた武道家は、戦いの時は、半眼で、周囲の景色を全部一遍に見るそうです。
しかし、全方位の場合、もっと、きょろきょろするような感じになるかもしれません。

[C2035] 差

小次郎は自分の力量には自信があったと思います。
「おれはここまで誰にも出来ない努力で技を磨いて来た」の自負心とも言えそうです。
出発点が「自分」にあるとき、外に向かって
>「私」とは、閉じられたもの・・
であり、とどのつまりは「過信」に到達しそうに思います。

武蔵が、もろもろの恩恵に気づく人であることは、
言葉を変えると、「メンツにこだわらない人」と思います。
>「私」とは、開かれたもの・・
は外に向かって、自分がないことと思います。

小次郎が鞘を捨てたとき、咄嗟に武蔵はそれを鋭く
指摘しました。
そのことで小次郎は自尊心がキズついて、心が乱れる
人間であることを見抜いていたからなのだと思いました。
見抜いたのは「差」だったのかも知れません。

[C2034] 「私」・・

小次郎は「私」が勝ったと思い、
武蔵は「私」を取り巻くあらゆるものにより勝てたと思う。
両者の中にある「私」・・でも、
「私」に対する扱い方が全然違います。
小次郎の「私」は、気をつけていないとドンドン積み上げていってしまいそうです。
スゴイと、うぬぼれる・・。
武蔵の方の「私」は、本当に小さい・・。
  • 2006/06/06-13:56:09
  • 投稿者 : まる
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[C2033] >たったこれだけの差かも知れません。


小次郎も武蔵も「私」という意識はあったと思うし、身体や思考、周りの
人間や環境との関係などで、形の定まった%B

[C2032] >

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[C2031] 閉じたり開いたり

私が「閉じている」というのは、外界との境界線が設定されていることと同じだと思います。

個という私で私と世界はそれぞれの外側になっていると思いますが、わざわざ閉じるというのはどこか意識的に世界との断絶を図っているような感じがします。
極端にいえば「自分以外は敵」という見方です。

私が「開いている」というのは、ある意味外界との境目が分からない状態のように思えます。
自分の体を超えて世界と繋がりをもてることにOKを出しているような感じだと思います。

武蔵がお礼を言わないのは、私以外の全てもまた私の一部であるという感覚があるような気がします。だからといってないがしろにするわけではなく、一体感とか共有している感覚が大きいような気がします。

小次郎が自分の感性だけ頼りにして負けたのは、自分の世界で溺れてしまったような感じだと思います。
かたや武蔵が緻密にロジカルに組み立て用意し、外界を受け入れて感性を排除していった先に全てと繋がってしまったような気がします。

なんだか二人の立場が入れ替わった感じがして面白いです。

[C2029] >武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

武蔵の気持ち、わかります(汗)
私の場合は、やっぱり「好き」なものに出会った時です。
それか「私」が可愛いなあ・・・と思うとき(爆)
もう世界中のありとあらゆるモノすべてに「おはよう」
ありがとう!・・・おやすみーっ ちゅ☆(笑)
でも、そうなっちゃうから仕方ない(汗)
ああ、お花が笑いかけてくれている(爆)
あたしのかわりに泣いてくれてんの?(雨)
この曲は・・・あたしの気持ちだあーーーー(爆)
なんてオメデタイのでしょう(汗)でも、そうなるから仕方ない。
すべての出来事が「予感」につながるような
不思議な一体感・・・あれは、確かにいまもある(笑)
でも、そうじゃなくなってしまった時、
ひどく苦しみました。「あの感覚はどこいった?」と(汗)
小次郎はそれでも自分の世界で満足できたから、幸せだったと
思います。
私は、苦しみました(汗)
でもいま、追い求めた「運命」はとてもきっつく縛られていた(汗)
そうゆう「情報」を知っただけですけど(汗)
でも、そうしたら・・・
この「茶碗」も「服」も「くつ」も「天気」も
虫もケンカも怒りもよろこびも・・・私の「運命」なんじゃん(爆)
と、嬉しくなった(笑)
「私」はいっぱいにいつも囲まれて「私」も誰かの「運命」の
一部なんだなあ・・・と(爆)
でも、それでも、何か「足らない」ような「不安」なような
ふと、世界からおいてけぼりをくらわせられるような・・・
変なキモチに襲われます(汗)
でもそれが「私」(性格)ならば、それと付き合ってゆくより
ありません。
「私」「ワタシ」「わたし」・・・ワタシとは、なんだろう?
今、疲れているのは「私」今、悲しいのは「私」誰か「私」を
正確に定義してくれるもの、あるだろうか。
それが「神さま」と呼べるのかな。
・・・よくワカリマセン。

 

[C2028]

>それでブログでも斬り込んでみることにしました。

唐突に思いついたので…ブログにおける感想から「運命の中で私とは」を書きます。
 
武蔵が…時空的Mだったとします。(すいません…さっきの自分のカキコふまえてます)運命の意のままにそっていいようにされています。お任せで…動けない状態だったとします。どうやったら逆転できるのか…それはまず相手に隙ができるような情報を与えることだと思いました。自らその手がとまるように。。ものすごい盛り上がってる最中に、外界をじっくり見回して…『すいません…鼻毛でてますよ…』みたいな(超爆)(あー書いちゃった…)相手の見えないところを取り出してみせることだと思いました。そしてまず考え込ませる。
六爻占術ってまさにコレなんじゃないかと思いました。時空は自分じゃなんにも見えないんだと思いました。コッチは相手を探るというか…具体的に映す(かも)…その権限(いちおうそう書きます)をM(=全部を与える)になる代わりに与えられてるのかなと思いました。
そして向こうも…実はSでなく…Mなんじゃないかと思いました。。お互い探って触れ合わず…取り出し合ってるのかなと思いました。圧倒的に向こうが取り出して与えてくるケースが多いと思いますが。。こちらも時空パーツなので同じことができるのかなと…で、もの凄い相手の秘密をさぐりあてちゃったら…向こうが…「へ、変更してください…」となるのかなと思いました。
というかコレを…「時空変態5レンジャー」でしてるのかもしれないと思いました。。(あー…大暴走してきましたか……してますね…でもいいんだ…)
 
>怒る私が悪いのか、それとも世間が悪いのか
 
さぁ…?…でもカキコ↑暴走気味なんで怒られませんように…(汗)でも基本がオタク(パロディ)なのでしょうがない…(私)(たぶん)あ、でも←ソレを自分でイッちゃだめなのよ…と。以上です……(滝汗)

[C2027] >巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

>小次郎にとって「私」とは、閉じられたもの・・
>武蔵にとって「私」とは、開かれたもの・・
>たったこれだけの差かも知れません。

たったこれだけの差、たったこれだけ・・・。しかしその差が生む広がりの有無・・・。そこには勝負に徹した小次郎と、勝負を超えた武蔵の姿がありそうです。

小次郎は凝縮してぎゅっと固まった、カチコチの状態だったけれど、武蔵は見た目は個である「武蔵」でありながら、実は限りなくどこまでも自由自在に広がる空気のような、そしてその中にまわりのすべてを包み込んで広がっていた、そんな状態だったのかなと思いました。それはまさに、剣の勝負を超えています。

そうなれたのはなぜか、やはり閉じていたのか開いていたのか、そこの違いだけなのか・・・。ならどうして私たち人間は、武蔵のように「開く」ことがなかなかできないのか・・・。できない、というより、「しない」というほうが正しいくらい、「開く」ことを必死で拒否さえします。それは恐怖から「個」を守るためでしょうか。

人は皆、先が見えないという避けられない現実があるゆえ、時間の流れの中生きている私たちは、どこかなにかしらの「恐怖」といつも同居して、生きているからかもしれません。でも実は個を閉じ、守ることが、恐怖を手放すことにはつながらないことにも気づかずに・・・。そしてそれは、何かの意識によって作られた、たくみに考えられた仕組みであることにも気づかずに・・・。

個であるがゆえに、気づかぬ部分も含めて、一見自然に、「個」が際立つよう磨いていく、磨いていく努力をする、それが自分らしさだと、生きていくことだと、世間では今もいつも言われているし、もりけんさんの世界に出会い、踏み込んでみるまでは、私もそう疑わず生きてきたひとりでした。

でも、実は全く逆だった・・・武蔵と小次郎の巌流島の戦いは、その勝負の結果をもたらした違いが、実は私たち人間の問い方、生き方を映していて、世間一般の道徳や常識や、つまづいた人が一度は目を向けるいわゆる精神世界や宗教で言われているような、私たちと同じ「人間」の考えた複雑な難しげな物語や理屈なんかはそこにはなくて、実はとてもシンプルな違いなんだよと教えてくれる、大きな情報のような気がします。

武蔵のように、「鳥の声が聞こえたら」いいけれど、すべてを肯定したら開くことができるのに、それが頭で分かったとしても、簡単なようにみえて、なかなか開くことができません。

でも、見えないはずの「先」が見える情報を、誰でも手にすることができる方法が、実はあるのだということを知れば・・・そして本来、決められているのに、それなのに、自分では知ることができなかったはずの未来の運命を、実際知ることができたとしたら・・・そして変更することさえ可能なんだと知ることができたら・・・

開くことが一気にできる、眠っていたセンサーが動きだす、トリガーになるのではないかと、そう思いました。









[C2025]

 小次郎は分かり易いです(笑)。小次郎にとって自分は個であると。
 武蔵にとっての自分というのは自分と自分の回りを含めた全体。一体となったもの。その境地は知りえていない自分は想像するばかりです。
 武蔵にとって回りも自分なら相手の小次郎とも一体だったことになるなとふと思いました。武蔵にとって勝負とは何なのかと思います。憎むべき相手でもないものとの命をかけた勝負。大きな流れに身を任せ、そんな流れをも自分とする武蔵のイメージが浮かびました。
 学生のころ、集合意識の概念が分からなくていろいろ想像したことを思い出します。自分の意識が他者とつながっているという。空間的に考えると離れている他者とつながるということが理解できませんでした。
 でも、今はそういうつながりというかがやはりあるのかなと少しイメージできるような気がします。
 >たったこれだけの差かも知れません。
 えらい違いだなと思いました(汗)。


[C2024] 巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

閉じられたもの、開かれたもの・・
小次郎が私と思うのはあくまでも入り込む個で
武蔵が私と思うのはすべてにつながった開かれた個だったのだと思いました。開かれたものは問いも開かれているから、無敵なんだと思いました。
  • 2006/06/06-11:01:47
  • 投稿者 : Ciel
  • URL
  • 編集

[C2023] >武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

>言うとすれば、あらゆるものに言ことになると思うからです。<そうですね。小次郎と武蔵では同じ言わないでも全く内容違うことになります。お礼も言えばいいってものでもないと思いました。あらゆるものに感謝を感じすぎていたら、言えないってこともあるのだと思いました。

[C2022]

>小次郎にとって「私」とは、閉じられたもの・・
>武蔵にとって「私」とは、開かれたもの・・
 
武蔵の得体の知れなさはコレだったのかと思いました。大胆不敵でつかみ所がないのは…この人は…一人だけど全体だったんだなと…。それは…得体がしれない。得体はないから…全部だから。開かれた「個」って不思議なカンジです。「個」の意味が違って見える…「個」は「個人」うんぬんの「個」でなく「パーツ(個体)」になる気がしました。私は…繋いでく「パーツ」なのかと思いました。みんなが私の上を素通りしていくような(個人的言い回しですが)……なんかの駅みたいな…私ってなんなんでしょう。マジで「ご奉仕」するためにいるのだろうか…人間は時空的Mな存在なのだろうか…そんな私の快って…。うー…。(ところで一瞬だけSなのかと…運命変更の時…どうよ…みたいな(汗)一瞬だけどスゴイ支配力…)
明け渡すことが…私の生き方…なのでしょうか。外に生きることが…この有り様にそうのでしょうか。なんでしょう…落ちてみたいような…しかしまだ逆らってみたいような…やー…でも怖いです。私には「個」がたっぷりある。すごい踏み絵です。巌流島のお話は。。
「個」の確固たる確立が今までの世界でしたから。なんかボロボロになってしまわないのかと。。武蔵はすごいなぁ剣豪なのに。。武蔵はすごい。。なんてヤツだろう。。武蔵にゾクゾクしました。。でもそれって武蔵にゾクゾクしてるんじゃなくて世界にゾクゾクしてたのか…うーん新感覚です。。

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巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

 不思議研究所のメインコーナーでは、「運命の中での私とは」というテーマが続いています。
 それでブログでも斬り込んでみることにしました。

 武蔵と小次郎は「私」を、どう捉えていたのでしょうか?
 
 例えば小次郎が勝ったとします。
 彼は、誰かにお礼を言うでしょうか?
 言わないと思います。
 自分の実力で100%勝ったと思うからです。
 
 武蔵もお礼は言わないと思います(笑)。
 でも理由は正反対です。
 言うとすれば、あらゆるものに言ことになると思うからです。
 
 大旦那・・
 佐助・・
 浅瀬の具合・・
 曇らなかったその日の天気・・
 
 小次郎にとって「私」とは、閉じられたもの・・
 
 武蔵にとって「私」とは、開かれたもの・・
 
 たったこれだけの差かも知れません。

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31件のコメント

[C2078]

 武蔵陣営は、旦那は舟を用意して、佐助はいわれもないのに船頭役を務め、、、
 周囲の人たちのいきさつは知りませんが、武蔵が「開かれた人」だから、みんなで武蔵を気にして連携プレーがうまくいったと思います。
 
 一方、小次郎陣営は、小次郎が勝てばなにかいい事がある、というような雰囲気すらします。その雰囲気は小次郎が「閉じられた人」だから、皆で連携してなにかをするという行動にはならなかったのかと思いました。

[C2054] 「私」

武蔵にとっての「私」とは、プライドを棄てた後に残ったものがそれではないかと考え
ました。 プライドを捨て去ることは、誰にとっても難しいのが普通だと思います。
武蔵とて、父親や和尚に「お前は弱い」と叩きのめされても、「俺は強い」と抵抗し、
自分の弱さを認めませんでした。

武蔵は試してみたのでしょうか。「自分が弱い」という視点で、一度自分を見てみよう
と。 その結果、意外にも「私」という意識は崩壊しなかった・・・それまでは、自分
が弱いということを一瞬でも認めようものなら、自分が自分で無くなるか、自分が崩壊
してしまうかのような恐怖心があったのに、実際は全然違っていた。 それどころか、
「私」という意識は自分の外側に向かって放たれて、その方が気持ちがいいほどだった
のかもしれません。

外側に開かれた「私」とは、私を諦め切ったところで初めて出会える自分、とも思えま
した。

[C2053] 外に開く

 内に自己完結していた小次郎、外を見ていなかった、あまりにも自分の技だけにおぼれてしまったと思います。どんなにすぐれた技もそれを生かす環境がなければ効果は半減すると思います。それに比べて外に開かれていた武蔵は常に自分をどうしたら生かせるかという視点に立って戦いの「場」というものを形つくってきたと思います。人はひとりでは、生きられません、どんなに優れたものやこともポピュラリティを得るように外へひらけなければ、伝わらないし、つながれないと思いました。
  • 2006/06/07-06:49:50
  • 投稿者 : yk
  • URL
  • 編集

[C2052] >武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

「私」が閉じられたものか開かれたものか・・
この違いはすごいと思いました。
そして分かりやすいです。

おなじお礼を言わない・・でも、本当に全然違います。

自分の力を伸ばそう、がんばろう、と思った時点で、「私」は閉じられるのだと思いました。

でも、何も意識していなければ、「私」を閉じる方へいってしまいそうです。
それは、まだ「自分がある」から・・
「私は原因」の部分があるから・・

もりけんさんの本の「開放」「リリース」というのを思い出しました。

[C2051] >武蔵と小次郎は「私」を、どう捉えていたのでしょうか?

手っ取り早く言えば小次郎は私が原因派で、武蔵は私は結果派だったと思います。

小次郎にとって私が原因で、剣のセンスがもともとあったのも、それを生かすべく剣の修行をしたのも自分で、他の誰でもない自分の力で腕前を勝ち取ったと思っていたと思います。
だから敗れても、相手が卑怯だとか、無念だとか思ったのではないかと思います。
勝負は時の運といいますが、自分の実力でそれをカバーできると思っていたのではないでしょうか・・。

一方武蔵は自分が弱いことを知っていたから周りの状況を分析もするし準備もするし演出もします。
剣の腕前があっても、それまでの人生で私は結果を体感していたのかもしれません。
そして私とは開かれたものと・・と思っていないとあらゆるものにつながることは出来なかったと思います。

人は、自分は強いとか自分は特別だとかレベルが高いと思ったときに、すでに負けているのかもしれないと思いました。
  • 2006/06/07-01:40:04
  • 投稿者 : 空タネ
  • URL
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[C2050] >巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

小次郎がお礼をいわないのは、自分で100%勝ったから・・

武蔵の場合は、すべてに言うことになるから。。

同じ行為でも、小次郎と武蔵は真逆だと思いました。


>小次郎にとって「私」とは、閉じられたもの・・
 
>武蔵にとって「私」とは、開かれたもの・・
 

武蔵にとっての「私」は、ネットワークのノードとしてのわたしだと思いました。


大旦那・・
 佐助・・
 浅瀬の具合・・
 曇らなかったその日の天気・・


武蔵にとってのあらゆる外側が、つながっていたのだと思います。

でも、小次郎は、技だけだった・・
自分しか見えていなかった・・

閉じられていて、外界とのつながりは切れていたでしょう


武蔵にとって私とは、外界とのつながりにおけるノードなので、広がりを感じます・・

でも・・
小次郎にとっての「私」は、

外界とのネットワークの途切れた、小さな「私」なのだと思いました。


[C2049] >巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?


「俺は強い!」と叫んでいたときの武蔵は、閉じていたのだろうと思います。
しかし、「弱い自分」を認められるようになってから、鳥の声が聞こえるようになり、開かれたのではないかと思いました。

[C2048] >たったこれだけの差かも知れません。

小次郎も武蔵も「私」という意識はあったと思うし、身体や思考、周りの
人間や環境との関係などで、形の定まった具体的なものとして「私」を認
識していたんじゃないかと思います。
 
でも意識していない部分では、小次郎と武蔵はこんなにも違っていたんだ
なと思いました。
 
小次郎が閉じられた自分しか感じていなかったのだとしたら、武蔵は閉じ
られた自分と開かれた自分の両方を感じていたんじゃないかと思います。
 
だから武蔵は「私」という個を感じつつも、自分の周りの全てに意識が向
いて、自分もそこに含まれて繋がっているのだと感じたのかも知れないと
思いました。

[C2047] >「私」

「私」への執着を捨てたとき、運命は切り開くものから、ゆだねるものへと変化しそうな気がします。
閉じられた「私」のままでは、あらゆるもののとの繋がりを感じることはできそうにありません。
あくまでも「私」あっての世界でしかないような・・・

大旦那も佐助も礼を言われることなど望んでいないと思います。
むしろ、この戦いの一端に係われたことを誇りと感じているかもしれません。
そこには一体となったという感覚があるように思いました。

「たったこれだけの差」という言葉が胸に沁みます。
これだけがなんと大きいことか・・・(ため息)

[C2046] 武蔵と小次郎は「私」を、どう捉えていたのでしょうか?

小次郎武蔵戦だけにかかわらず。。。剣の道には、生死をかけた戦いがあり。。。時空を、マジかに感じたのかも~とも思います。。あ。。武蔵が勝利したのは。。。水辺を走ったことで。。。宇宙の派動と地球の波動をとうしやすくなったのかな。。。ビンビン~~♪♪きっと。。体もあったまってきてて武蔵と宇宙とシンクロしたのかも~~♪♪

  • 2006/06/06-20:44:40
  • 投稿者 : バニー
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[C2045] つきなみな所から入りますが

この二人が負けた場合、小次郎は自分の剣の技術が悪かったのだと思うのでしょう。一方武蔵は自分以外の全てのものが悪かったという風に考えるでしょう。

しかしこれではへんです。よっておそらく武蔵はそもそも感謝もしていないのではないかと思います。負けて恨んだりもしなれば、勝っても誰にも感謝もしないし、自分の技術が達者だったとも思わないでしょう。

武蔵が人間としてもっている普通の他の人に対する感謝と、今回の試合に勝ったときの周囲や時空に対する感謝とは、武蔵の中では種類が違うのかもしれません。大旦那たちに対する感謝はあったにせよ、それは人間武蔵の部分の感謝であって、周囲や時空に対する感謝とは別物なのではないかと思います。

そしておそらくこの仮説がいいのではないかと思いました...。

武蔵が周囲のものに対する感情は、我々が通常思い浮かべるような「感謝」とは違い、もっと、透徹した、冷たく透明なものなのではないかと思います。

そもそも、小次郎から見れば武蔵の勝ち方は理不尽なものだと思います。

このような「理不尽」な勝ち方をしたということに対して何も感じない代わりに、逆に武蔵自身が、さらに策を弄する刺客から、理不尽な殺され方をしたとしても、きっと何も感じなかったと思います。

100%時空に弱みをさらしており、完全に無防備な状態だったのかもしません。

ひとりの個としての武蔵を越えた周囲のものに対する愛とはこのようなものだったのかもしれません。
  • 2006/06/06-20:23:59
  • 投稿者 : ナイル
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[C2044] 私とは何だろう

小次郎と武蔵は「私」の捉え方が正反対だと思いました。
私の所在を外に向けた武蔵はいろいろな助け手を得ていますがそれぞれが相手を思っていますが
寄りかかってはいないと思いました。
「私」というものを考える時この寄りかからないで立てることが「私」というものであるように思います。
武蔵がちゃんと立っているから助け手も安心して味方ができるように思います。

[C2043] >たったこれだけの差かも知れません。

たったこれだけ、でも、ものすごい差、でもあると思いました。開かれた自分は、己の能力にこだわらず、外界に問うことで外応をキャッチし、自分自身に多くのプラスαを加えることが出来るのだと思います。ものすごいお得感があります。


事実を認めることに気付かないで、自分の内側へ内側へと入り込んで行く思考回路は、いったいいつから始まったのだろう、なぜ始まったのだろう、と思ってしまいます。ふしとものHPやこのブログに来るまで、これほどハッキリと生き方の違いに気付けませんでした。大元はいったい何だったのでしょう・・。


目指せ、小次郎的生き方、が圧倒的な世の中で、武蔵のあり方に気付けたことは、幸いです。

[C2042] >武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

私とは?この問いは常に抱いていて、これからもずっと考え続けることだと思います(永遠かも・・)。

今回のもりけんさんの投稿で「閉ざす」か「開くか」の差について書かれていますが、内面を見ているから外側を見ているかということだと思います。
さらに、「自分のことしか見えない」か「自分以外のものも見ることができるか」の差なのだと思います。
最近感じるのは、「自分のことしか見えない」とき、確実に運が味方についていないと感じ、「外側を見ている」ときは自分が求めなくても時空が運をよくさせてくださいと言っているかのように味方についている感覚を受けます。
人間は弱い人間ですから、たまにさみしくなったり、不安になったりするとは思いますが、これは当然のことなんだと思います。
こんな状態に陥るときに、誰かのせいとか私は不幸な人だ、私はいけない人だと自分を評価してしまうようになると、それは「内面を見ている」状態に入ってしまい、運からどんどん離れているのだなと思います。
ただ、その感情を極端な話楽しめばいいのではないかと思います(論じてすんません(汗))。

小次郎はすごく強い人だったと思います。
しかし、武蔵は「内面じゃないんだ・・・」という気づきを手に入れることができたのだと思います。
小次郎は「自分のおかげ」という考えから変化することができなかったのだと思います。

運を自分が変化するのではなく、自分は固定化されてまわりが変化している感覚なのかと感じます。

[C2041] >閉じられた自分、開かれた自分

最近になって、外側にあまり抵抗感を感じなくなりました。
そうなった方が上手く回るような感触はあります。
といっても運を良くすることを目的にしているわけではなく、
なんとなくそうなった感じです。
いかに自分がどうでもいいことに抵抗してエネルギーを消耗していた
のだと思います。
だからほんの少しだけ武蔵の状況がわかるような気がします。
でも私の場合は、盲師派推命占術によって、運命は決まっているのだからを
考えるようになったからで、武蔵の経緯とは全然違いますが。
「自分は弱い」と事実を認めたことによって、自分を明け渡した方が上手くいく
ことに気が付いたのだと思います。
お礼を言わないのは、常に周りと一体になっているからかなと思いました。
  • 2006/06/06-17:18:57
  • 投稿者 : イーキン
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[C2040] (くろこちゃん!)

亀ですが・・はじめまして!
(もう、ものすごく、、、かわいい~!!!)

[C2039] 閉鎖空間で堂々巡り

(汗)私って何?と、籠もって考えれば考えるほどわからなくなるのは、
私の内面には何もないということなんじゃないか、と思いましたが・・・

はっきりしていることは「外側」なしに、「私」は存在出来ないと言うことですが、
小次郎は閉じた空間で、自分をほめるとしたら(汗)
外側をはっきり見ていた武蔵が、「自分」を見ていたということになるのではと思いました。

うーん、、何か「はっ」としたのですが、今は、つかまえられませんでした(がっくり)

[C2038]

武蔵は自分の限界を知っていたからではないかと思いました。

なんでもがんばればできるとかよくいいますが、やはり己を知れば限界がわかります。
やれるだけのことをやったら後はおまかせ。。。。
ということが解っていたのではないかな。。。。と思いました。

でもそれはなかなかできません。口に出すとまわりは努力が足らないだの。。行動力・気力がないだのと
のたまうから・・・(爆)

もう運命におまかせ・・・・です。

[C2037] ありがとう教、危うし、


「ありがとう」と多くの人にその言葉を発すると、自分がツイてくるという事例があるそうです。
しかし、この例から言うと、「ありがとう」と言えば、「ありがとう」と言われない人ができることになり、
「ありがとう」と言えば言うほど、自分の周囲の環境との関係を断ち切ることになってしまうと、思いました。

優れた武道家は、戦いの時は、半眼で、周囲の景色を全部一遍に見るそうです。
しかし、全方位の場合、もっと、きょろきょろするような感じになるかもしれません。

[C2035] 差

小次郎は自分の力量には自信があったと思います。
「おれはここまで誰にも出来ない努力で技を磨いて来た」の自負心とも言えそうです。
出発点が「自分」にあるとき、外に向かって
>「私」とは、閉じられたもの・・
であり、とどのつまりは「過信」に到達しそうに思います。

武蔵が、もろもろの恩恵に気づく人であることは、
言葉を変えると、「メンツにこだわらない人」と思います。
>「私」とは、開かれたもの・・
は外に向かって、自分がないことと思います。

小次郎が鞘を捨てたとき、咄嗟に武蔵はそれを鋭く
指摘しました。
そのことで小次郎は自尊心がキズついて、心が乱れる
人間であることを見抜いていたからなのだと思いました。
見抜いたのは「差」だったのかも知れません。

[C2034] 「私」・・

小次郎は「私」が勝ったと思い、
武蔵は「私」を取り巻くあらゆるものにより勝てたと思う。
両者の中にある「私」・・でも、
「私」に対する扱い方が全然違います。
小次郎の「私」は、気をつけていないとドンドン積み上げていってしまいそうです。
スゴイと、うぬぼれる・・。
武蔵の方の「私」は、本当に小さい・・。
  • 2006/06/06-13:56:09
  • 投稿者 : まる
  • URL
  • 編集

[C2033] >たったこれだけの差かも知れません。


小次郎も武蔵も「私」という意識はあったと思うし、身体や思考、周りの
人間や環境との関係などで、形の定まった%B

[C2032] >

コメントをどうぞ

[C2031] 閉じたり開いたり

私が「閉じている」というのは、外界との境界線が設定されていることと同じだと思います。

個という私で私と世界はそれぞれの外側になっていると思いますが、わざわざ閉じるというのはどこか意識的に世界との断絶を図っているような感じがします。
極端にいえば「自分以外は敵」という見方です。

私が「開いている」というのは、ある意味外界との境目が分からない状態のように思えます。
自分の体を超えて世界と繋がりをもてることにOKを出しているような感じだと思います。

武蔵がお礼を言わないのは、私以外の全てもまた私の一部であるという感覚があるような気がします。だからといってないがしろにするわけではなく、一体感とか共有している感覚が大きいような気がします。

小次郎が自分の感性だけ頼りにして負けたのは、自分の世界で溺れてしまったような感じだと思います。
かたや武蔵が緻密にロジカルに組み立て用意し、外界を受け入れて感性を排除していった先に全てと繋がってしまったような気がします。

なんだか二人の立場が入れ替わった感じがして面白いです。

[C2029] >武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

武蔵の気持ち、わかります(汗)
私の場合は、やっぱり「好き」なものに出会った時です。
それか「私」が可愛いなあ・・・と思うとき(爆)
もう世界中のありとあらゆるモノすべてに「おはよう」
ありがとう!・・・おやすみーっ ちゅ☆(笑)
でも、そうなっちゃうから仕方ない(汗)
ああ、お花が笑いかけてくれている(爆)
あたしのかわりに泣いてくれてんの?(雨)
この曲は・・・あたしの気持ちだあーーーー(爆)
なんてオメデタイのでしょう(汗)でも、そうなるから仕方ない。
すべての出来事が「予感」につながるような
不思議な一体感・・・あれは、確かにいまもある(笑)
でも、そうじゃなくなってしまった時、
ひどく苦しみました。「あの感覚はどこいった?」と(汗)
小次郎はそれでも自分の世界で満足できたから、幸せだったと
思います。
私は、苦しみました(汗)
でもいま、追い求めた「運命」はとてもきっつく縛られていた(汗)
そうゆう「情報」を知っただけですけど(汗)
でも、そうしたら・・・
この「茶碗」も「服」も「くつ」も「天気」も
虫もケンカも怒りもよろこびも・・・私の「運命」なんじゃん(爆)
と、嬉しくなった(笑)
「私」はいっぱいにいつも囲まれて「私」も誰かの「運命」の
一部なんだなあ・・・と(爆)
でも、それでも、何か「足らない」ような「不安」なような
ふと、世界からおいてけぼりをくらわせられるような・・・
変なキモチに襲われます(汗)
でもそれが「私」(性格)ならば、それと付き合ってゆくより
ありません。
「私」「ワタシ」「わたし」・・・ワタシとは、なんだろう?
今、疲れているのは「私」今、悲しいのは「私」誰か「私」を
正確に定義してくれるもの、あるだろうか。
それが「神さま」と呼べるのかな。
・・・よくワカリマセン。

 

[C2028]

>それでブログでも斬り込んでみることにしました。

唐突に思いついたので…ブログにおける感想から「運命の中で私とは」を書きます。
 
武蔵が…時空的Mだったとします。(すいません…さっきの自分のカキコふまえてます)運命の意のままにそっていいようにされています。お任せで…動けない状態だったとします。どうやったら逆転できるのか…それはまず相手に隙ができるような情報を与えることだと思いました。自らその手がとまるように。。ものすごい盛り上がってる最中に、外界をじっくり見回して…『すいません…鼻毛でてますよ…』みたいな(超爆)(あー書いちゃった…)相手の見えないところを取り出してみせることだと思いました。そしてまず考え込ませる。
六爻占術ってまさにコレなんじゃないかと思いました。時空は自分じゃなんにも見えないんだと思いました。コッチは相手を探るというか…具体的に映す(かも)…その権限(いちおうそう書きます)をM(=全部を与える)になる代わりに与えられてるのかなと思いました。
そして向こうも…実はSでなく…Mなんじゃないかと思いました。。お互い探って触れ合わず…取り出し合ってるのかなと思いました。圧倒的に向こうが取り出して与えてくるケースが多いと思いますが。。こちらも時空パーツなので同じことができるのかなと…で、もの凄い相手の秘密をさぐりあてちゃったら…向こうが…「へ、変更してください…」となるのかなと思いました。
というかコレを…「時空変態5レンジャー」でしてるのかもしれないと思いました。。(あー…大暴走してきましたか……してますね…でもいいんだ…)
 
>怒る私が悪いのか、それとも世間が悪いのか
 
さぁ…?…でもカキコ↑暴走気味なんで怒られませんように…(汗)でも基本がオタク(パロディ)なのでしょうがない…(私)(たぶん)あ、でも←ソレを自分でイッちゃだめなのよ…と。以上です……(滝汗)

[C2027] >巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

>小次郎にとって「私」とは、閉じられたもの・・
>武蔵にとって「私」とは、開かれたもの・・
>たったこれだけの差かも知れません。

たったこれだけの差、たったこれだけ・・・。しかしその差が生む広がりの有無・・・。そこには勝負に徹した小次郎と、勝負を超えた武蔵の姿がありそうです。

小次郎は凝縮してぎゅっと固まった、カチコチの状態だったけれど、武蔵は見た目は個である「武蔵」でありながら、実は限りなくどこまでも自由自在に広がる空気のような、そしてその中にまわりのすべてを包み込んで広がっていた、そんな状態だったのかなと思いました。それはまさに、剣の勝負を超えています。

そうなれたのはなぜか、やはり閉じていたのか開いていたのか、そこの違いだけなのか・・・。ならどうして私たち人間は、武蔵のように「開く」ことがなかなかできないのか・・・。できない、というより、「しない」というほうが正しいくらい、「開く」ことを必死で拒否さえします。それは恐怖から「個」を守るためでしょうか。

人は皆、先が見えないという避けられない現実があるゆえ、時間の流れの中生きている私たちは、どこかなにかしらの「恐怖」といつも同居して、生きているからかもしれません。でも実は個を閉じ、守ることが、恐怖を手放すことにはつながらないことにも気づかずに・・・。そしてそれは、何かの意識によって作られた、たくみに考えられた仕組みであることにも気づかずに・・・。

個であるがゆえに、気づかぬ部分も含めて、一見自然に、「個」が際立つよう磨いていく、磨いていく努力をする、それが自分らしさだと、生きていくことだと、世間では今もいつも言われているし、もりけんさんの世界に出会い、踏み込んでみるまでは、私もそう疑わず生きてきたひとりでした。

でも、実は全く逆だった・・・武蔵と小次郎の巌流島の戦いは、その勝負の結果をもたらした違いが、実は私たち人間の問い方、生き方を映していて、世間一般の道徳や常識や、つまづいた人が一度は目を向けるいわゆる精神世界や宗教で言われているような、私たちと同じ「人間」の考えた複雑な難しげな物語や理屈なんかはそこにはなくて、実はとてもシンプルな違いなんだよと教えてくれる、大きな情報のような気がします。

武蔵のように、「鳥の声が聞こえたら」いいけれど、すべてを肯定したら開くことができるのに、それが頭で分かったとしても、簡単なようにみえて、なかなか開くことができません。

でも、見えないはずの「先」が見える情報を、誰でも手にすることができる方法が、実はあるのだということを知れば・・・そして本来、決められているのに、それなのに、自分では知ることができなかったはずの未来の運命を、実際知ることができたとしたら・・・そして変更することさえ可能なんだと知ることができたら・・・

開くことが一気にできる、眠っていたセンサーが動きだす、トリガーになるのではないかと、そう思いました。









[C2025]

 小次郎は分かり易いです(笑)。小次郎にとって自分は個であると。
 武蔵にとっての自分というのは自分と自分の回りを含めた全体。一体となったもの。その境地は知りえていない自分は想像するばかりです。
 武蔵にとって回りも自分なら相手の小次郎とも一体だったことになるなとふと思いました。武蔵にとって勝負とは何なのかと思います。憎むべき相手でもないものとの命をかけた勝負。大きな流れに身を任せ、そんな流れをも自分とする武蔵のイメージが浮かびました。
 学生のころ、集合意識の概念が分からなくていろいろ想像したことを思い出します。自分の意識が他者とつながっているという。空間的に考えると離れている他者とつながるということが理解できませんでした。
 でも、今はそういうつながりというかがやはりあるのかなと少しイメージできるような気がします。
 >たったこれだけの差かも知れません。
 えらい違いだなと思いました(汗)。


[C2024] 巌流島・・武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

閉じられたもの、開かれたもの・・
小次郎が私と思うのはあくまでも入り込む個で
武蔵が私と思うのはすべてにつながった開かれた個だったのだと思いました。開かれたものは問いも開かれているから、無敵なんだと思いました。
  • 2006/06/06-11:01:47
  • 投稿者 : Ciel
  • URL
  • 編集

[C2023] >武蔵と小次郎にとっての「私」とは?

>言うとすれば、あらゆるものに言ことになると思うからです。<そうですね。小次郎と武蔵では同じ言わないでも全く内容違うことになります。お礼も言えばいいってものでもないと思いました。あらゆるものに感謝を感じすぎていたら、言えないってこともあるのだと思いました。

[C2022]

>小次郎にとって「私」とは、閉じられたもの・・
>武蔵にとって「私」とは、開かれたもの・・
 
武蔵の得体の知れなさはコレだったのかと思いました。大胆不敵でつかみ所がないのは…この人は…一人だけど全体だったんだなと…。それは…得体がしれない。得体はないから…全部だから。開かれた「個」って不思議なカンジです。「個」の意味が違って見える…「個」は「個人」うんぬんの「個」でなく「パーツ(個体)」になる気がしました。私は…繋いでく「パーツ」なのかと思いました。みんなが私の上を素通りしていくような(個人的言い回しですが)……なんかの駅みたいな…私ってなんなんでしょう。マジで「ご奉仕」するためにいるのだろうか…人間は時空的Mな存在なのだろうか…そんな私の快って…。うー…。(ところで一瞬だけSなのかと…運命変更の時…どうよ…みたいな(汗)一瞬だけどスゴイ支配力…)
明け渡すことが…私の生き方…なのでしょうか。外に生きることが…この有り様にそうのでしょうか。なんでしょう…落ちてみたいような…しかしまだ逆らってみたいような…やー…でも怖いです。私には「個」がたっぷりある。すごい踏み絵です。巌流島のお話は。。
「個」の確固たる確立が今までの世界でしたから。なんかボロボロになってしまわないのかと。。武蔵はすごいなぁ剣豪なのに。。武蔵はすごい。。なんてヤツだろう。。武蔵にゾクゾクしました。。でもそれって武蔵にゾクゾクしてるんじゃなくて世界にゾクゾクしてたのか…うーん新感覚です。。

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森田健(もりけん)

Author:森田健(もりけん)
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森田健が実際に足で歩いて遭遇した出来事を皆さんに報告する場として「不思議の友」という無料会報誌を出版しています。
この本は、読んでいただけるだけで嬉しいです。
でも、何か意見を返してくれるともっと嬉しいです。
不思議なことに興味がある方、不思議なことを解明したい方、または新しい生き方を見つけたい方のためのものです。
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